商品コード: ISBN4-7603-0259-8 C3321 \50000E

第10巻 日本科学技術古典籍資料/天文学篇[6]

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The Collected Historical Materials in Yedo Era (Sixth Series)
(第10 巻)日本科學技術古典籍資料/天文學篇【6】:西洋新法曆書
{Tenth Volume: The Collected Historical Materials on Japanese Science and
Technology / The History of Japanese Astronomy (6)}

 この「近世歴史資料集成」シリーズも、日本の近世に書き遺された歴史資料の刊行に務めてきた。ただ、近世の学問を含む文化、政治、経済なども、古代、中世、近世と連続している時代の中で把握し、かつ、古代以前から、日本國と文化、人的交流のあった中國や朝鮮國のさまざまな影響を無視することができず、これらの諸国との交流によって、日本國の学問文化に多大の影響を与えてきた諸文献の探求の必要に迫られてきたので、あえて、和刻版・中國版・朝鮮國版と称される文献についても、掲載を試みることにした次第である。「東醫寳鑑・和刻版」(小社刊行「近世歴史資料集成」第五期・第五巻及び第六巻)の上梓もその一例である。
 上記の視点にたてば、日本の古来からの天文學も、日本國独自の自立した学問体系などではなく、最初は中國から、その後は西洋諸国からの影響を受けて発展してきた。中國からはおびただしい数の書物や天体観測などの資料が日本國に輸出されてきた。西洋からの移入品は、中國を経由して日本國にもたらされた資料と、直接西洋から持ち運ばれてきたそれらとに、大きく分類することができる。前者は、主としてイエズス会の宣教師たちによって中国語に翻訳された資料が多い。後者は、蘭学として、長崎のオランダ商館の役人、宣教師、航海者たちが、直接、日本國に持ち運んだ資料が大部分である。この日本國の天文學も江戸時代の初期においては、明國・清國から輸入された資料を基礎にして発展してきたと言えよう。特に、明代に中國で布教・啓蒙活動の実践の一環として、イエズス会士たちにより刊行されたさまざまな天文學書について考察する必要があると思われる。ここで、この書物が上梓された当時の中國、明代末期から清代初期にかけての状況について、簡単に触れておこう。
①一六一二(萬曆四十)年:西洋の天文學、数學、機械技術、砲術などに関する卓越した知性を携えてヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル(SCHALL VON BELL, Johann Adam、一五九二-一六六六)が中國に渡ってくる。彼のイエズス会への入会年は一六一一(萬曆三九)である。彼はケルンに生まれたドイツ人で、中國名は、湯若望 (TANG Ruo-Wang)、道味(Dao-Wei)などである。
②一六一六(天命元)年:萬歴帝がキリスト教の布教を禁止し、宣教師の澳門(マカオ)への退去を命じる。
③一六二二(天啓二)年:徐光啓などの進言もあり、このキリスト教布教禁止令は撤回された。その後、澳門(マカオ)に追放されていた、ジュリオ・アレーニ(ALENI, Giulio、艾儒畧、一五八二-一六四九)、エマヌエル・ディアス(DIAZ, Emmanuel、陽瑪諾、一五七四一六五九)、ニコラオ・ロンゴバルディ(LONGOBARDI, Nicolao、龍華民、一五六六-一六五四)、ホアオ・ダ・ロチャ(ROCHA, Joăo da、羅如望、一五六五-一六二三)、フランチェスコ・サンピアソ(SAMPIASO, Francesco、畢方済, 一五八二-一六四九)、ジャン・テレンツ(TERENZ, Jean、鄧玉函、一五七六-一六三○)などが呼び戻され、明國の科學技術の発展を担うことになった。
④一六二九(崇禎二)年:徐光啓、改暦の勅命を受け、曆局を設立。
⑤一六三六(崇禎九)年:国号を清と改める。
⑥一六四三(崇禎十六)年:「洪武帝以来の大統曆を廃止し、西洋の曆を採用する」勅命が発せられる。ただ、明王朝末期の混乱のために、この布告が実施されることはなかった。
⑦一六四四(順治元)年:清の実質的な中国支配が始まる。
 ここに出てくる明末の学者徐光啓(じょこうけい)は、中國の科學技術史を語るうえでかかせない人物である。彼は一五六二(嘉靖四一)年に生をうけ、 一六三三(崇禎六)年に逝去している。一六○三(萬曆三一)年、ホアオ・ダ・ロチャ(ROCHA, Joăo da、羅如望、一五六五-一六二三)に洗礼を受けたキリスト教徒で、字は子先。上海の出身。博学多才で、学問に専心し、一五九九(萬曆二七)年、マテオ・リッチ(RICCI, Mateo、利瑪竇、一五八三-一六一○)に教えを受け、その後、天文學・地理學・物理學・水利學・暦数學などについてのマテオ・リッチの口授を翻訳・筆記・公刊した。特に「ユークリッド原論」を中國語に翻訳した「幾何原本」六巻、「農政全書」の編著者として名高い。マテオ・リッチの死後、野に下るが、一六二八(崇禎元)年、再度皇帝に召され、尚書に昇進する。一六二九(崇禎二)年、日蝕が正規の期日に観測されなかったことを契機として、「郭守敬の暦法」を修正し、正確な暦法の確立を崇禎帝に進言し、勅命により曆局が設立された。徐光啓は監督を命じられ、前述の召された宣教師たちに暦法の推算を依頼した。一六三二(崇禎五)年、多くの暦書を献じたとされている。晩年、文淵閣に列せられ、経済の才に富み、この知識を世のために用いようと志したが、建白することができず、不遇の内に世を去った。
 この「西洋新法曆書」は、清代の一六四五(順治二)年に、三十二種、十三函,百三巻で刊行され、原版は「崇禎曆書(Tsoung Tchin Li Chou-Sur les Étoiles)」の表題で明代に書き記されているという記載がある。この詳細な経緯や書誌については、『中國科學技術典籍通彙・天文巻 八』(一九九三年、河南教育出版社)の六四三-六五○ページに潘鼐氏によって執筆された「西洋新法曆書提要」という論攷があるので、参照されたい。明代においては、徐光啓(一五六二-一六三三)[主修]、李天經(一五七九-一六五九)[續完]により、「第五次進呈本」として、四十六種、百三十七巻、包含書稿百三十五巻が、恒星総図一摺、恒星屏障一架を添えて、王朝へ献呈された記録が見られる。また、崇禎後期(一六三五-一六四三)にも、李天經は、「崇禎曆書」(二十二種、七十六巻)を献呈している。この中に掲載された「治暦縁起」は明代に刊行された別の書籍である。
 この潘鼐氏の論文や日本に現存する「西洋新法曆書」及び「崇禎曆書(Tsoung Tchin Li Chou-Sur les Étoiles)」の研究の方法は以下のように提示することができよう。もとより、これは編者の一方的な見解であることをお断りしておきたい。
①この「西洋新法曆書」及び「崇禎曆書(Tsoung Tchin Li Chou-Sur les Étoiles)」の書誌学的考察である。ことに明代に製作されて公表された「崇禎曆書(Tsoung Tchin Li Chou-Sur les Étoiles)」の内容探求である。『中國科學技術典籍通彙・天文巻 八』に掲載されている「崇禎曆書(Tsoung Tchin Li Chou-Sur les Étoiles)」が明代の版であることの再度の実証が必要であろう。
②日本の圖書舘で見られたさまざまな版(國立公文書館、國立國会圖書館、群馬県館林市立図書館、東北大学附属圖書館所蔵本)も内容構成にかなりの相違が発見されている。おそらく、清代にさまざまな様式で製作されたこの資料が、日本國に渡来してきたと推定される。また、著名な天文学者潘鼐が、長年の歳月をかけて、「明刻明印版」と「順治二年補刊初印版」などの稀覯本に整理・考証・訂正を加えたことが知られているが、彼の書誌学的研究をさらに推進するためにも、現存する所蔵史料を再度ひもどいて検討する必要があると思われる。
③この資料も、編者たちによって収集されたさまざまな著作物の集合体であると推定されるので、この暦書を構成している個々の著作物についての内容の解析が、疑問を解決する糸口になるであろう。
 この稿が成るにあたっては、橋本敬造先生(関西大学名誉教授)のご教示を得た。先生のご教示に対して深く感謝の意を表するものである。また、原文は東北大學附属圖書館所藏の「西洋新法曆書」を使用した。関係者各位に、御礼の言葉を申し上げる次第である。
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