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近世植物・動物・鉱物図譜集成 第7巻 草木図説 稿本 草部 (1)

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近世植物・動物・鉱物図譜集成 第7巻 草木図説 稿本 草部 (1)
〈2006年/平成18年10月刊行〉
飯沼 慾齋『草木図説・完全版(草部1/草之一~草之十四)』



飯沼慾斎著『草木図説』刊本と稿本について
 
水野瑞夫・江崎孝三郎・田中俊弘・酒井英二・遠藤正治

目  次
一、はじめに
二、著者飯沼慾斎の略歴
三、『草木図説』草部刊本
四、『草木図説』稿本
五、『草木図説遺稿

  一、はじめに
 『草木図説』とその著者飯沼慾斎(一七八三~一八六五)に関する研究は、一九八四年に生誕二百年記念誌『飯沼慾斎』((一))が刊行されて、その視界が大きく広がったが、以後も、慾斎研究会などによる史料調査と分析が継続され、着実に深められてきている。((二・三))
 『草木図説』は、リンネの分類法にもとづいてわが国の植物を分類し科学的に観察・図記した最初の植物図譜であり、江戸期の本草・博物学の最高到達点を示す成果といえる。明治になって、その科学性が海外からも高く評価された。
 近代教育の成立する以前の日本に『草木図説』のような科学書が成立していたことは一つの奇跡とも見える。従来、『草木図説』はいち早く本草流を脱して西洋の分類法を受容した側面が評価され、伝統的な本草研究や西洋薬物研究の蓄積の意義が無視される傾向にあったが、近年の研究はむしろ、江戸末期の本草学と洋学の発展の成果として『草木図説』が位置づけられてきている。
 『草木図説』には、慾斎自身が平林荘に屏居絶客して研究したと述べていることから、孤高な植物研究者による著述というイメージがつきまとっている。近年の研究ではこのイメージがくずれ、慾斎はむしろ誰れとも積極的に交流をもとめ、新しい情報にきわめて鋭敏な感性をもっていたまさに近代的な研究者像が浮かんできている。
 慾斎の学問、本草・蘭方・西洋植物学あるいは写真術などは、独立のものではなく、相互に密接な関係にあったものとみられる。とくに『草木図説』の成立には、次の三つの潮流が大きな影響をあたえていたことが明らかにされている。
  a.小野蘭山学統の本草学
  b.宇田川家の洋学
  c.来日外国人による日本植物の研究
 小野蘭山学統の本草学は、中国本草書にもとづく本草研究からしだいに独自性をつよめ、蘭山の『本草綱目啓蒙』(一八〇三~〇五刊)によって日本的な博物的本草学の方向を示した。島田充房・小野蘭山共著『花彙』(一七六五刊)は日本的な立体的本草図の表現法を生み出し、岩崎灌園の『本草図譜』(一八三〇~四四刊)はすぐれた本草図譜の世界を広げた。また、水谷豊文の『物品識名』(一八〇九~二五)のような漢名中心主義から和名中心主義への転換をはたしていた。
 宇田川家の洋学は、宇田川玄随・榛斎の二代にわたる西洋医書の翻訳により蘭方内科の基礎を築いたが、さらに榛斎・榕菴の二代にわたる西洋薬物書の翻訳によって、わが国最初の蘭方薬物書『遠西医方名物考』(一八二二~三四刊)『新訂増補和蘭薬鏡』(一八二八~三五刊)を刊行した。その過程でリンネの分類法が受容され、榕菴の『菩多尼訶経』(一八二二刊)や『植学啓原』(一八三四刊)によってわが国ではじめて西洋植物学の紹介がなされた。
 来日外国人による日本植物の研究は、ケンペルの『廻国奇観』AmoenitatumExoticarum,1712にはじまり、ツュンベリーの『日本植物誌』Flora Japonica,1784によって大きく発展し、シーボルト・伊藤圭介の『泰西本草名疏』(一八二九刊)によって新しい展開をみせていた。
 本稿では、これら三つの潮流との関連でなされた新研究を紹介しながら飯沼慾斎と『草木図説』についての解説を試みる。

  二、著者飯沼慾斎の略歴
 慾斎は、天明三(一七八三)年伊勢国亀山(現三重県亀山市)に商人西村信左衛門守安の次男として生まれる。生年については天明二年説が通説化していたが、近年の調査では天明三年説がほぼ確定している。ただし誕生日は六月一日説もあるが、確かな史料的裏付けは見あたらず不明である。母は大垣の町人宝来屋飯沼長義の次女登勢。幼名は本平のち専吾。名は長順、通称は龍夫(りゅうふ)(二代)。慾斎は隠退後の号、ほかに弐城老人、蕉窓などとも号した。寛政六(一七九四)年十二歳のとき美濃国大垣に出て伯父飯沼長顕の桐亭塾に入塾する。長顕は母登勢の兄で京都の福井楓亭に内科を、楢林家で外科を、小野蘭山について本草学を学んで大垣に漢方医を開業していた。慾斎は長顕に薫陶を受けるとともに、垂井に寓居中の京都の儒者合田恒斎に儒学を学ぶ。
 寛政十二(一八〇〇)年十八歳のころ、京都に出て福井楓亭の子榕亭に漢方を学ぶ。通説ではこの京都遊学時蘭山にも入門したとされるが、蘭山はすでに東去後であった。蘭山の日記によれば、享和二年五月紀州採薬の帰途、美濃赤坂の金生山に採薬したとき西村専吾の名で慾斎が参加したことを記している。このとき入門したのであろうか。
 文化元(一八〇四)年九月駿河伊勢志摩採薬の帰途にも蘭山は飯沼龍夫の家に宿泊する。この龍夫は慾斎ではなく初代龍夫
長顕をさすが、幕命による採薬の途中門人の家に宿泊するというのは異例であり、蘭山と飯沼家との親交の深さを示している。((四))
 同年、長顕の養子となり、長顕の長女志保を妻として大垣俵町に転宅し、漢方医を開業する。そのころ大垣藩医江馬蘭斎の蘭方塾が盛名を高めており、垂井の親友吉安三英の勧誘によって蘭方転学の意を固め、蘭斎の門人吉川廣簡について蘭書の手ほどきを受ける。
 文化七(一八一〇)年二十八歳で江戸に出て宇田川榛斎に入門、榛斎の高弟藤井方亭に蘭書を学ぶ。このときの方亭は『ショメール』をテキストに指導したので、慾斎は「叔墨児脈説」をまとめた。((五))江戸遊学は一年足らずで帰国し、蘭方医として再開業、遠近より教えを請う者や病客が旧に増して多くなった。
 文政五(一八二二)年ころ自宅で江馬活堂、吉安三英らと西書の会読をする。江馬活堂の『藤渠漫筆』によれば、このころ慾斎は「大垣第一等の流行医となり一ヶ年千円余ノ収納あり」という。
 文政十(一八二七)年、大垣の町医としての精勤が認められ、大垣藩より御目見、帯刀を許される。翌十一年門人の高須藩医浅野恒進らとともに美濃地方では最初の刑屍体の解剖を試みる。((六))
 天保三(一八三二)年五十歳で家を義弟飯沼長栄眠斎(三代龍夫)に譲り、大垣郊外長松村の平林荘に隠退。通説では隠退後植物研究に専念したとされるが、隠退とは名ばかりで、家業のため東奔西走し、本宅での門生への教授を続けた。天保十三(一八四二)年六十の賀宴には「医説」を識し、子弟に示した。 弘化元(一八四四)年六十二歳ころ『草木図説』の執筆を志し、江馬活堂のほか名古屋の伊藤圭介、吉田雀巣庵平九郎、京都の本草家山本亡羊・榕室父子らと交流をはじめる。
 弘化二年根尾山に採薬、『根尾山採薬秘笈抜粋』((七))をつくる。また加賀白山に採薬。嘉永五年伊藤圭介らとともに伊吹山に採薬。
安政五年尾張嘗百社の伊藤圭介・吉田平九郎らと伊勢菰野山に採薬する。
 嘉永二(一八四九)年牛痘法による種痘を試みる。
 嘉永四年伊藤圭介から高倍率六鏡よりなるカフ型顕微鏡を入手し、これを使って花の解剖図などを描く。また圭介に『オスカンプ』の借用を依頼する。((八))
 安政三(一八五六)年『草木図説』草部第一帙を刊行し、以後文久二(一八六二)年まで逐次刊行し全四帙二十巻を完結する。
 安政四年『大黄私考』を著す。((九))
 安政六年七十七歳ころ、大垣藩舎密局において鉄砲火薬製造の任を命ぜられる。また、蘭書によってダゲレオタイプ(銀板写真)の実験を試みる。慾斎の写真術は文久二年ころコロジオン湿板(ガラス湿板写真)の段階で成功した。化学・写真術の門人を育て、一族から小島柳蛙・納屋才兵衛・飯沼長蔵らすぐれた写真師や写真研究家を輩出させた。((一〇))
 元治元(一八六四)年尾張知多郡内海の前野小平治宅に往診の際、小平治宅で卒中で倒れ(『藤渠漫筆』)、翌慶應元(一八六五)年閏五月五日病没、享年八十三歳。大垣縁覚寺に葬られる。
 慾斎の人となりは、来客中も筆を中止せず応対したといわれる反面、保養のため楊弓・双六などを好み、妻と競的対盤した。また囲碁・抹茶を嗜み、貴顕とも交わった。あるいは碁会を開き、茶の湯会席を催した。年々山行・野遊を催し、自ら山駕籠に乗り、家族を誘って膝琴を携帯し、春は養老山・釜ヶ谷等に登り観桜の宴を張り、秋は採茸、紅葉を楽しんだ。喫煙は好んだが平素飲酒は厳禁したという(飯沼長徳『慾斎逸事』)。
 著書に『草木図説』のほか『本草図集』十一巻、『南勢菌譜』六巻、『南勢海藻譜』一巻、『南海魚譜』四巻、『林氏訳稿』十四巻、『植物用語対訳』『雑筆記』((一一))などがある。うち『本草図集』は、草部七巻と木部、虫部・介部、魚部、禽部・獣部各一冊の十一巻からなり、蘭山の朱書がある本草式の図譜であるが、その動植物図大半が養老沢田真泉寺毘留舎耶谷著『東莠南畝讖』三巻(享保八~寛延元ころ成立か)の転写であることが磯野直秀氏によって解明されている。((一二))
 慾斎はまた蘭書の入手に苦心し、知友から借本して自ら模写・訳述して『草木図説』の執筆に備えた。ミュンチングAbrahamMunting(1626-1683)の銅版植物図譜『アールドゲワッセン』
Naauwkeurige Beschryvung der Aardgewassen.,1696の膨大な写本やキニホフJohann Hieronymus Kniphof(1704-1765)の『植物印葉図譜』(第二版)Botanica in originali seu Herbarium.,
1757-1764の写本などが残されておりその一端を窺うことができる。
 慾斎は江馬塾とならぶ美濃有数の蘭方塾を経営していた。((一三))門人が多数おり、門人帳は失われているが、判明しているだけで二十数名を数えることができる。植物の門人は見あたらない。門人で漢詩人としても知られる神田柳溪の著『蘭学実験』三巻(一八四八刊)は美濃の蘭方医たちの臨床実践の報告書であり、慾斎とその周辺の蘭方事情を伝える好著である。((一四))

  三、『草木図説』草部刊本
『草木図説』の概要 天保三年平林荘に隠退した慾斎は、ここに拠って老いを養うとともに植物研究に専念する。当時現れた伊藤圭介の『泰西本草名疏』や宇田川榕菴の『植学啓原』あるいはミュンチング、ドドネウス、キニホフ、ショメール、オスカンプ、ハウトウインなど西洋植物関係書に導かれ、蘭方の生薬研究を試み、次第に本草学批判を強め「本草学を唱ふる者率ね多く漢名を識るを以て長技と為す。余の望む所の植学者と大いに同じからず」(『草木図説前篇引』)として新たな植物図説の執筆を志す。起筆後約二十年の歳月をかけて著述したのが、『草木図説』草部二十巻、木部十巻である。その他禾本・莎草・無花部もあるが、未分類の稿本のまま残された。
 『草木図説』は本草書的な考証や伝聞を排し、自らの観察によって確認できた舶来種を含めてわが国に産する草本類約一二〇五種、木本類約五九七種を集め、リンネの二十四綱分類法に準拠して分類配列した図説である。図説の画期的な特徴は次の諸点にあろう。
(1)植物の標名を和名で統一してこれに対するラテン語の学名あるいはオランダ語の俗名を決定することを記述の中心においたこと。植物の一部に漢名を添えているが一名にとどめ、名物学的考証を排している。
(2)自ら栽培・観察した植物の葉枝花実の構造や生態をかつてない詳細さと正確さで記載した。慾斎がこのため作成した植物標本のうち一三五五点が現存する。
(3)画工の手をかりず自ら写生図を描き掲げた。写生図は全体図のほか、花や実は顕徽鏡によって観察し、拡大図や解剖図を付した。全体図は墨摺りとし、葉の表面を黒くして葉脈を白く浮き出させる表現を採用した。部分図は手書きで彩色を施した。
(4)尾張で発達した印葉図法を採用した。葉脈の細微を示すため補助的ながら植物の一部の印葉図を掲げて写生図を補った。あらゆる方法を駆使して植物の真実に迫ろうとした自然科学的な図説と言える。
 『草木図説』は、慾斎の生前に草部二十巻が出版された。これが初版本である。
 明治初期には、フランス人サバチエにより自然分類による学名が与えられ、田中芳男・小野職愨によって『新訂草木図説』(一八七五)が出版された。これは初版本の板木を用いて改刻したもので、黄表紙本とも称される。このとき同時に田中芳男・小野職愨撰『草木図説目録草部』一冊が博物館から刊行されている。
 明治末から大正にかけては牧野富太郎により『増訂草木図説』(一九〇七~一三)が出版され、さらに広い読者を得た。これは記文が活版、図は木版の洋装本であるが、彩色はない。
 慾斎の生前に出版されなかった木部十巻も、一九七七年北村四郎編註の影印図本が保育社より出版されて、ここに草・木両部の出版が完結をみた。
草部の出版過程 『草木図説』草部二十巻は、五巻ずつを一帙として、四次に分けて刊行された。第一帙(巻一~五)は安政三(一八五六)年に、第二帙(巻六~十)および第三帙(巻十一~十五)は文久元(一八六一)年に、第四帙(巻十六~二十)は翌文久二年に、それぞれ刊行された。これらは一括して初版本とよばれる。
 第一帙出版の経緯については、幸田正孝氏によって詳しく解明されている。((一五))幸田氏によれば、初版本の出版許可願には、慾斎の三男で宇田川榕菴の養子となって宇田川家を継いでいた興斎(一八二一~八七)が仲介している。慾斎は出版許可願をはじめ興斎を通じて幕府医学館に提出したが、医学館から蘭方医書ではないから天文方へ伺うよう指示をうけ、嘉永七年(安政元年)九月二十八日天文方へ草稿六冊を添え申請した。さらに翌安政二年二月、須原屋伊八が天文方に再度出版許可を願い出て、三月には認可を得る。板木は十二月には完成していた。
 板木は京都の彫刻師・路熊敬輔により彫られた。「画工に託せばわが意をつくせない」(『草木図説前篇引』)と自分で写生図を描いた慾斎であるから、図版の細部にまで心を配るために、京都や江戸ではなく、身近に彫刻師を置いて作業をさせたものと思われる。安政三年三月二十七日『草木図説』五部(二十五冊)が大垣から江戸の興斎に届けられている。この摺り見本を添えて、四月五日須原屋伊八より町奉行へ『草木図説』売出し願書がでている。一月余りたった五月販売許可が下りる。七月十七日には大垣から「摺り離し」の『草木図説』五十部が興斎の許へ届く。これを須原屋で扉をつけ製本し、改めて須原屋仕立て本として興斎のもとに五部とどけられたのは、八月二十一日であった。第一帙は安政三年九月には発売されたものとみられる。
 第一帙本には巻一の扉(見返し)と巻五の奥付の異なる数種の異本が存在する。((一六))まず、扉の違いから無扉本・楷書扉本・篆書扉本の三種に大別できるが、さらに奥付の相異によって細かく分類できる。
〈無扉本〉巻一の見返しが白紙であり、左下部に「仰俊賢識者訂正」(俊賢ナル識者ノ訂正ヲ仰グ)なる白文の遊印が押印してあり、巻五に奥付が無い私家本と見られる。
〈楷書扉本〉巻一の見返しが黄地で、楷書体で、
  安政丙辰新鐫/飯沼慾斎著/草木圖説前篇第一帙/平林荘  蔵版 印
とあり、印は、朱文と白文とからなり、朱文は「家在弐城古趾」。弐城は平林荘の所在地の古い村名で慾斎は弐城老人とも称した。白文は無扉本のものと同文・同形の遊印である。
 楷書扉本には、扉に絵印を押したものと、押してない本とがある。この絵印の有無によってさらに次のように分類できる。
(i)絵印本 扉の右上部に円形(直径六・六㎝)の朱印が押されている。図柄は亀(亀龍または龍?か)の上に仙人が乗り天空を飛び、書物を両手に捧げている図で、『遠西医方名物考』や『舎密開宗』など宇田川家の訳述書の絵印と同印であり、宇田川家の蘭方訳述書の出版をあつかった青藜閣・須原屋伊八の発売本である。絵印本はさらに奥付の違いによって、須原屋伊八一軒本・書林六軒本・書林八軒本の三種に分けられる。
(ⅱ)無絵印本 扉に絵印が押されていない本。
〈篆書扉本〉巻一の黄地の見返には篆書体で、
  安政丙辰新鐫/慾斎飯沼先生著艸之部第一帙/艸木圖説前  篇/大日本平林荘蔵板
とある。二帙以降の各首巻の扉も、刊行年は異なるが、すべてこのタイブである。楷書扉本と比べると、「慾斎飯沼先生」と著者名に敬称がつけられている。また印章の押し方に変化がみられ、巻一では、朱文「家在弐城古趾」も白文遊印「仰俊賢識者訂正」もともに削除され、第二帙以降の各首巻では朱文「家在弐城古址」のみが押印され、遊印は本文第一丁表に移されている。これらの変化は明らかに出版の主体の異動に対応しており、出版と発売の主体が著者から書林に移ったことを示している。
 篆書扉本の奥付は、その前丁の表に「安政三丙辰年 官許 平林荘蔵版」、裏に「製本所 尾州名古屋本町通七丁目 永楽屋東四郎」とあり、三都書物問屋として江戸須原屋茂兵衛・同山城屋佐兵衛・同岡田屋嘉七・同須原屋伊八・同和泉屋金右衛門・大坂河内屋喜兵衛・同河内屋和助・同河内屋茂兵衛・同秋田屋太右衛門・同伊丹屋善兵衛・京都出雲寺文治郎・同俵屋清兵衛の十二軒が名を連ねている。
初版本の本文は各本とも同一の板木を使用しているので、扉や奥付のことなる異本の存在は、これらが一度に刷られたもの
ではなく、数次にわたって刷られたことを物語っている。
 第二帙以降は、天文方の後身の蕃書調所において開版の検閲が行なわれている。蕃書調所の『開版見改元帳』によると、その経過は次のようである。
  安政五年正月二十五日、一冊改済/草木図説前編、巻六/  正月十五日、飯沼慾斎
  同年十月月、四冊改済/草木図説、自七至十、四冊/九月、  飯沼慾斎
  万延元年閏三月五日、五冊改済/草木図説前編、自十一至  十五、五冊/閏三月、飯沼慾斎
  文久元年四月十五日、二冊改済/草木図説、十六・十七、  二冊/四月十五日、飯沼慾斎
  同年五月十五日、改済/草木図説、十八・十九・二十、三  冊/五月十五日、飯沼慾斎
 開版願は各巻ともに書林からではなく著者から逐次提出され、それぞれ遅滞することなく速やかに受理されたことがわかる。開版願の際、提出されたのは第一帙の場合と同様浄書稿本であったはずである。刊行後の納本についての記録は見あたらない。
 改済の後、逐次板刻がなされたはずである。刊行は扉によれば、第二帙は文久元年正月、第三帙は文久元年九月、第四帙は文久二年七月となっているが、これは公称である。実際には、第二帙と第三帙の出版はそれより数カ月は遅れたものとみられる。
 第二帙以下の出版は、京都の路熊敬輔ではなく、名古屋の豊原堂土佐助が彫刻を行ったものと推定される。摺立・製本までを永楽屋東四郎が請負い、名古屋において製作されていたことが、篆書扉本の存在とともに永楽屋東四郎の山田彦九郎(慾斎の次男権蔵)宛の書簡からも裏付けられる。
 『草木図説』初版本は、扉と奥付の分類から、一刷ではなく少なくとも六刷が識別できた。
 著述家としての慾斎はまだ実績がなく無名であった。私家版から始めたが、次第に書林の評価を高め、発売書林を増やし、増刷をくり返し行っていた。第二帙以下は名古屋の永楽屋東四郎が実質的出版書林となった。慾斎自身が常に「今人の見るを求めるにあらず他年の機運を期す」(飯沼長蔵「増訂草木図説附言」)と述べていたとされ、本草隆盛の最中にあった江戸期には『草木図説』への理解者は少なくあまり流布しなかったのではとの理解が一般的であるが、初版本の出版の経緯はこれを覆す。むしろ多くの読者を着実に広げていたことが実証される。
標名と学名 ―『泰西本草名疏』と『物品識名』の影響 『草木図説』は植物の標名に伝統的な漢名ではなく和名を用いた。いかにして漢・和の転換をはたしたのであろうか。
 これに対する学名あるいはオランダ名は、第一帙では欧文字ではなくカナ表記されている。これは出版事情のため余儀なくされたためであった。もとの稿本は欧文字で書かれており、刊本第二帙以降ではすべて欧文字とカナ表記を併記している。
『草木図説』草部には、伊藤圭介の『泰西本草名疏』が引用書名としてほとんど記載されていない。しかし、春?氏・春氏あるいは西勃氏の引用が多い。春?氏・春氏はツュンベリーを西勃氏はシーボルトをさすが、いずれも出典は『泰西本草名疏』である。このことは『草木図説』と『泰西本草名疏』比較によって明らかである(表1)。
 春?氏あるいは春氏は狭義には『泰西本草名疏』に出る植物の学名の命名者としてのツュンベリーをさし、広義にはツュンベリーの『日本植物誌』すなわちこれを改訂した『泰西本草名疏』を意味する。
 『草木図説』と『泰西本草名疏』とを比較すると、標名や学名に強い相関がみられる。春氏や西勃氏の名を挙げていない記文で『泰西本草名疏』を利用したものと推定される例も多い。これらを含めた『泰西本草名疏』の実質的引用度数を数えると草部で二九四、木部で一五一の計四四五に達する。
 『草木図説』に引用されるおもな引用文献の引用度数を比較してみる(図1)。草部と木部でほぼ同様の傾向を示す。『泰西本草名疏』についで多いのは林氏である。林氏はリンネではな
く、ハウトゥイン(ホッタイン)の『リンネ自然博物誌』第二部 M.Houttuyn,
Natuurlyke Historie,
1773~1783のことである。草部で二七三、木部で九七の計三七〇引用されている。『泰西本草名疏』と並んで『リンネ自然博物誌』は『草木図説』のもっとも重要な参考文献であったことがわかる。
 慾斎は多くの西洋植物書によって学名を同定しようとしたが、何と言ってもまず頼りになったのは来日外国人による日本の植物研究であった。ハウトゥインはツュンベリーが日本で採集した標本の一部をブルマンを通じて見ており、『リンネ自然博物誌』第二部に日本の植物三三種を記載していた。((一八))しかし、『リンネ自然博物誌』第二部の直後に出版されたツュンベリーの『日本植物誌』は日本の植物八一二種を記載していた。日本の植物についてはツュンベリーはハウトゥインをはるかに凌駕していた。
 『草木図説』に記載された植物は草部一二〇五種、木部五九七種の計一八〇二種であるが、その大半は学名が同定されていない。学名が同定されたのは七六五種にすぎない。その同定された学名の約六割の四四五種は『泰西本草名疏』に拠っている。『泰西本草名疏』はツュンベリーの『日本植物誌』を改訂した書だから、『草木図説』の学名の大半はツュンベリーに発し、シーボルトと圭介、さらに慾斎による批判をへて決められたことになる。
 それでは慾斎はツュンベリーの『日本植物誌』を親しく使用して考証していたのであろうか。その痕跡はないとされる(牧野「『増訂草木図説』巻末ノ言)。これに対する反証として『草木図説』巻五のシライトソウの例を挙げることができる。「按春氏已上ノ二名ヲ掲ゲ、下ニユキノフデト云名ヲ記ス、西勃氏之ヲ本條ト断」とある。『泰西本草名疏』のシライトソウの項にはユキノフデの名はない。一方、ツュンベリーの『日本植物誌』の
Melanthium luteumの項にIukino Futeとあることから、慾斎の按文の意味がはじめてよく理解できる。おそらく慾斎は伊藤圭介から『日本植物誌』を借り、それと『泰西本草名疏』とを比較しながら同定をすすめたものと思われる。しかし、『草木図説』にもっとも大きな影響を与えたのは『泰西本草名疏』であったという事実には変わりはない。
伊藤圭介は長崎遊学中、出島に師の『物品識名』や?葉標本などを携行することを許され、日々シーボルトのもとへこれらを持参し、シーボルトがラテン名を書入れて研究した。また、帰郷に際してシーボルトからツュンベリーの『日本植物誌』を贈られたので、帰郷後これを抄訳して名古屋で出版したのが『泰西本草名疏』であった。
 一方、シーボルトはツュンベリーを越える日本の植物の研究を来日の目的の一つとしていた。それゆえ『泰西本草名疏』には圭介の意図とは別に、シーボルトのツュンベリーに対抗しようとする強い意志も表現されていた。ツュンベリーの『日本植物誌』において与えた学名の多くは『泰西本草名疏』で改訂を受けたが、その際、和漢名も批判し、多くは『物品識名』の標名に改められたのである。
 そこで『草木図説』が第一に『泰西本草名疏』に拠ったということは『物品識名』の標名を採用することにつながった。しかし、『草木図説』『泰西本草名疏』『物品識名』三書の標名関係はそれほど単純ではない。いま三書間の標名(和漢名)の親近度(=和漢名の一致数/『泰西本草名疏』利用植物四四五種)を求めてみると、まず『泰西本草名疏』と『物品識名』の間の親近度は八二%であり、『泰西本草名疏』は『物品識名』の標名をかなり批判的に採用していたことがわかる。一方、『泰西本草名疏』と『草木図説』との間の親近度も同じく八二%である。
『草木図説』も『泰西本草名疏』の標名を批判的に採用している。もし、このとき『草木図説』が『泰西本草名疏』のみを利用していたとすれば、『草木図説』と『物品識名』との親近度はかなり疎になったはずであるが、実際の親近度は八六%とむしろ親である。このことから、慾斎が標名を定める際、『泰西本草名疏』と『物品識名』の両方を利用していたことがわかる。
水谷豊文の『物品識名』(正編一八〇九刊、拾遺一八二五刊)
は植物の標名について、和名を主(正名)として漢名を副とする和名中心主義への転換をはたしていた。『物品識名』は小野蘭山の『本草綱目啓蒙』を主な典拠としたが、『本草綱目啓蒙』とは違い和名中心主義をとった。
 和名と漢名との関係は、もし本草書をはじめ漢籍に載る植物と日本の植物とが同一であれば問題はないが、実際はおおむね異質であったので、多くは類似の植物が対応させられていた。和名と漢名との矛盾を回避する手段として和名中心主義を採用することは和・漢の植物研究ではきわめて重要な意義をもつ。
 『草木図説』の標名は『物品識名』にならって和名中心主義を採用したが、中には芭蕉・桔梗・午時花などのような通名(和漢通名)を掲げた。草部で一八例、木部で四例みられる。通名はすでに蘭山の『本草綱目啓蒙』にもみられるが、あまり多くはなかった。それが『物品識名』『草木図説』において次第に多くなっている。通名が多く掲げられるようになったのは、和名と漢名の矛盾が次第につよく意識されはじめた裏返しにほかならない。
『草木図説』の分類体系と属・種の決定法 『草木図説』は、分類体系ではツュンベリーではなくハウトゥインの『リンネ自然博物誌』第二部に準拠していたことが木村陽二郎氏よって明らかにされている。((一九))
 ツュンベリーの『日本植物誌』の分類体系は、もとのリンネの二十四綱法を簡略した体系をとっていた。第二〇~二三綱を略して前の諸綱に散入し、第二四綱を第二〇綱の位置に置くという体系であった。
 『草木図説』はこれに倣わず、ハウトゥインの『リンネ自然博物誌』に準拠してリンネのもとの二十四綱法に忠実に従っている。『リンネ自然博物誌』ではリンネには無かったヤシ類・木類・灌木類・草類・球根類・禾本類・シダ類・蘚苔類・菌類の九類別を設けていた。『草木図説』はこれをさらに手直して草部・木部に大別し、その他は未分類のままとした。『リンネ自然博物誌』に準拠したとすれば、草部より木部が前編となるべきで
あろう。それ故か、高知県立牧野植物園牧野文庫所蔵の慾斎自筆の木部稿本のように、表紙に前篇とあり、木部を前篇とした原稿も存在する。
 リンネの二十四綱法は雄蕊の数や長短、位置等によって綱を、雌蕊の数によって目を定めるという綱目分類法であるが、綱・目より下位の属・種の分類法については、明確な分類法を示していない。リンネの分類法を受容した圭介や慾斎らは、属・種の分類法についていかに認識していたのであろうか。
 圭介は、『泰西本草名疏』附録において、二十四綱法をわが国ではじめて詳しく紹介した。
  綱ト目トヲ定メテ後類ト種ヲ区別スベシ、類トハソノ類属  ヲ統ルノ名、種トハその品種ヲ分ツ名ナリ
と今日の属に対して類という訳語を用いて属(類)・種を定義している。
  綱ト目トヲ定メテ後ソノ各類ノ徴証ヲ考?シテ精当スルモ  ノハ初メテソノ類名ヲ定ムベシ、又ソノ種ノ徴証ヲ参較シ  テ的合スルモノハ初メテソノ種名ヲ決スベキナリ、皆ソノ  徴証ニ援拠シテ審辨甄別(ケンベツ)セズバアルベカラズ、然トモ本草  諸書ヲ精窮シテソノナクシテ先哲ノ未ダ知ラザルモノナル  添明カナルトキハ是ヲ新類ト称シ新ニソノ類名ヲ命ズベシ 属(類)・種の決定にはその指標(徴証)によらねばならないと説くが、圭介は指標(徴証)そのものについては何も説明していない。むしろ西洋の植物書から知るべきものであり、もし先哲の知らないものがあればそれを新属(類)・新種とするものと説明している。圭介は、属(類)・種の決定法の具体的なことまでシーボルトから学ぶ時間がなかったのであろうか、「博通精窮ノ人ニアラズバソノ新類新種ヲ決定シ難キナリ」とサジを投げた恰好である。
 一方、『草木図説』では、慾斎の義弟・飯沼長栄眠斎による凡例においてその方法を解説している。凡例では二十四綱法の細部の解説は避け、もっぱら花・実の形態や茎・葉の形態など分類に必要な知識を紹介している。その上で、
  花實ニヨツテ属ヲ分チ、茎葉ニヨツテ更ニ種ヲ分ツ
と圭介の類・種ではなく属・種という訳語を用いて、属を分ける指標が花・実にあり、種を分ける指標が茎・葉にあることを明快に述べている。
 それでは、この花実・茎葉を属・種の分類の指標とするという方法を慾斎がどこから学んだのであろうか。実際の経緯は不明であるが、その出典の一つが榕菴の『植学啓原』にあったことは疑いない。『植学啓原』には、
  属名ハ公称ノ如ク、種名ハ私号ノ如シ
  花實ニ於テ之ヲ取ルヲ分属本然之徴ト為シ、茎葉等ニ於テ  之ヲ索ルヲ分種本然之徴ト為ス
と『草木図説』とほぼ同様の方法を明記している。『植学啓原』には、雄蕊、雌蕊という訳語はなく、まだ『菩多尼訶経』以来の鬚蕋、心蕋という古い訳語を残しているが、属・種の訳語は新しい。慾斎が圭介の類・種ではなくこれを採用したのは偶然とは思えない。
 『草木図説』の学名の多くは古くなっていて今日のものと合わないとされる。学名が今日のものと比べて合わないことは、単に古くなったということばかりではなく、『草木図説』の成立過程や構造そのものに原因があったものと考えられる。
 まず、『草木図説』の学名の当否を見てみよう。『泰西本草名疏』を利用した草・木部四四五種についての当否を評価してみる。属・種名まで正確に合っているものは、亜種・変種のちがいは無視して、二八%。属名までとゆるめると六二%が今日のものと一致する。したがって全く学名が合わないのは四割近くにも達する。『草木図説』の図記の精度からみて、この数字は意外である。ではなぜ正確に同定できなかったのであろうか。
 その原因としては次の三点が考えられる。
(ⅰ)東西の植物の異質性の問題。
 慾斎が利用した一八世紀末から一九世紀初頭までの西洋植物書に記載されていた学名は、おもにヨーロッパおよびその勢力圏内の植物についての学名であり、東アジアの植物についてはほとんど空白に近かった。したがっておおむね異質な日本の植物に学名を宛てるのはそもそも無理がともなった。
(ⅱ)外国人による日本植物研究の問題。
 『草木図説』の学名は、おもにツュンベリーの『日本植物誌』あるいはそれをシーボルト・伊藤圭介が改訂した『泰西本草名疏』の学名を批判的に採用したものであった。ツュンベリーやシーボルトの日本での調査はきびしい制約のなかでおこなわれ、十分な比較調査なしに、日本の植物と欧米の既知の植物とを同一視した場合が多かった。
(ⅲ)リンネの二十四綱法の限界。
 リンネの雌雄蕊分類体系はもともと人為的分類という限界があった。
 『草木図説』の学名にはこうした様々な歴史的限界が投影しているのである。
『草木図説』の薬用植物 『草木図説』は、実用からはなれた自然誌的な植物図説であるとみられている。一方、「其種治病ノ功用ニ明ナルモノハ原本必ス之ヲ載レドモ其事頗ル繁長ニシテ各条ニ容レ難キモノアリ、故ニ今其部ニ除テ後巻ニ附録ス」(飯沼長栄「草木図説附言)とあり、薬用に関わる記載が散見される。((二〇))  宇田川家の洋学を学んだ蘭方医としての立場から、慾斎の植物研究は蘭方薬の研究と不可分にむすびついていたことも事実である。以下に木部をふくめていくつかの例を見ておこう。
〔メグサ 薄荷〕 『草木図説』巻一一は日本産の葉腋に花をつけるハッカ(Mentha arvensis L. var. piperascens Malinv.)をとりあげている。これを『リンネ自然博物誌』によってヨーロッパ産のMentha gentilis L.にあてている。その根拠として、
  按春氏Mentha piperitaノ名ヲ挙テ直ニ薄荷ト譯シ、宇氏亦  従テ本條ヲソノ種トナスモノ可疑、piperitaハ花茎頭ニ簇  リ、本條ハ葉腋ニ層々簇生スルノ異アレバ、gentilisノ的  当ナルニ不如、然レドモソノ性功ニ大異ナケレバ、宜ク通  ジ用ウベシ、ソノ功用薬鏡諸書ニ詳ナレバ略之
とある。西洋ではMenthaとしてヨーロッパの栽培種ペパーミントMentha×piperita L.が用いられていた。このペパーミントに対して、『新訂増補和蘭薬鏡』では漢名の薄荷(Mentha haplocalyx Bruq.)をあて、『泰西本草名疏』もハッカ 薄荷にあてていた。
 慾斎はペパーミントの花が頂性であることからこれらの説に疑問をいだき、日本産のハッカをMentha gentilis L.と同定したのであるが、これも類似種の同定であった。
〔ダイコンソウ 水楊梅〕 西洋で強壮・解熱剤とされる植物にGeum urbanum L.があった。これに対して、『新訂増補和蘭薬鏡』では水楊梅・ダイコンソウにあてた。水楊梅は中国ではおもに
Geum aleppicum Jacq.であり、ダイコンソウは今日Geum japonicum Thunb.とされる。漢名と和名の間にも矛盾があった。
 『泰西本草名疏』は正しくダイコンソウGeum japonicum Thunb.としたが、慾斎はこれに批判的であり、『新訂増補和蘭薬鏡』に載る薬性を根拠にダイコンソウ=Geum urbanum L.とした(草部巻九)。
  按林氏所説形状的当ス、然ルニ春氏Geum japonicumノ名ヲ  下シ、西勃氏コレニ大根サウノ名ヲ施セバ、林氏の第二種  者我大根サウニ些異アルニヨルガ、今試之ニ気味功用全ク  同ジケレバ余ハ同種ト断ズ
 形態の差異よりも薬性の同質性に重きを置いた判断がみられる。
〔ハシリドコロ 莨?〕 中国本草の莨?(Hyoscyamus niger L.)をハシリドコロ(Scopolia japonica Maxim.)にあてたのは平賀源内の『物類品?』が初出とみられるが、この説は『本草綱目啓蒙』にも『物品識名』にもひきつがれ、慾斎もこれに従っている。この場合も和・漢名の間に矛盾をかかえていた。
 さらに『遠西医方名物考』は西洋の麻酔剤・瞳孔散大薬として知られるベラドンナ(Atropa belladonna L.)をウェインマンの図によって莨?に比定した。これによって莨?=ハシリドコロ=ベラドンナ説が生まれたのである。水谷豊文とシーボルトの会見によって、この説はシーボルトによっても確認され、シーボルト事件の遠因になった話はあまりにも有名である。
 『草木図説』がこの説に対して何と記しているか大変興味がもたれるところであるが、植物の形態とともに『新訂増補和蘭薬鏡』に載る薬効が一致することから、「葉根共ニ峻功あり」として莨?=ハシリドコロ=ベラドンナ説を追認している(草部巻三)。
〔カノコソウ〕 西洋で鎮痙剤としてよく用いられた植物にセイヨウカノコソウ(Valeriana officinalis L.)があった。『新訂増補和蘭薬鏡』はこれに漢字名の纈草(カノコソウ)をあてた。榕菴は纈草の由来が松岡恕庵の『本草一家言』に拠るとするが、『本草一家言』には纈草は見えない。
 一方、ツュンベリーの『日本植物誌』はValeriana officinalis L.をオミナエシにあてていた。シーボルトはこれを批判し、「カノコサウis wel nog beter als de Europaesche Valeriana!」としてカノコソウと改めた。『草木図説』巻二はこのシーボルト説に従っている。
  按林氏ハレリアナノ類ヲ挙クルコト二十種ニシテ、ソノ殊功ヲ称スルハ専ラ此種ニアリ、ソノ用名物考詳之、阿須氏所図ノ此種ニアツテハ、葉茎共ニ毛茸アルモノヽ如クナレドモ、林氏ソノコトヲ不説、且西勃氏本邦所産ノ種尤佳品ナルコトヲ云ヘバ、ソノ真品ナルコト可証
 ここでも薬効の一致を同定の一つの根拠としている。カノコソウは今日ではValeriana fauriei Briq.とされる。この場合も結果として類似種の同定であったが、カノコソウはハシリドコロとともに薬効が西洋種に劣らないことが確認されており、今日の日本薬局方に載る数少ない和産の洋方薬と認められている。
〔フキ 款冬〕 ?冬(Tussilago farfara L.)はヨーロッパからアジア北部に広く分布する植物で中国とヨーロッパで古くから薬用にされた植物である。ところが日本にはこの植物はなく、『大
和本草』以来『本草綱目啓蒙』『物品識名』にいたるまで、?冬(あるいは?冬花)にフキ(あるいはフキノトウ)があてられていた。フキはPetasites japonica Miq.とされ、?冬とは別属であった。和名と漢名の間にも矛盾をかかえていた。
 ツュンベリーの『日本植物誌』はフキにTussilago petasites L.をあてていた。『草木図説』巻一七も『本草綱目啓蒙』に従ってフキ=?冬説をとり、Tussilago類としている。
〔ヒメハギ 遠志〕 『本草綱目啓蒙』は遠志をヒメハギにあてているが、『神農本草経』以来の中国の遠志はイトヒメハギ
(Polygala tenuifolia Willd.)であり、日本のヒメハギ(Polygala japonica Houtt.)とは別種である。やはり和・漢名の間に矛盾をかかえていた。
 一方、北アメリカ原産で先住民セネガ族の薬草であったセネガPolygala senega L.はヨーロッパに移入され、?痰剤として『バタビア薬局方』などにも載る要薬となっていた。『新訂増補和蘭薬鏡』はこのセネガに遠志をあてたので、遠志=ヒメハギ=セネガ説が生まれた。
 ツュンベリーの『日本植物誌』はさすがにヒメハギとセネガを混同せず、Polygala japonica Willd.をあてた。慾斎もツュンベリーおよびハウトゥインにならって、ヒメハギをPolygala japonica Houtt.と同定した。「葉ヲ煎シテ肋膜痛ヲ利シ、根末ヲ煉蜜シテ消削病ニ用ル等ノ主能ハ本條ニ於テモ亦通用スベシ」とセネガ同様の薬効を期待している(草部巻一三)。
〔アルセム〕 西洋で強壮解熱・鎮痙剤とされる植物にオランダ名Alsem、ニガヨモギ(Artemisia absinthium L.)がある。ニガヨモギはヨーロッパから南シベリア原産。『草木図説』草部巻一六において慾斎はこの植物を偶然大垣で発見したと感激している。
  嘉永癸丑之春、吾郷薬師亀屋嘉兵衛ノ堆塵場中此草一根ヲ  生ズ、余看之形色不凡、愛護怠タラズ、次年花実ヲ為ニ至  テ、諸書ニ徴ルニ形状気味Alsemニ的合シ、又舶来乾枯ノ品  ニ校ルニ一般異ナシ、因テ之ヲ試験スルニ其功遠ク経年陳  久ノ品ニ勝ル、此種本邦未曽見、舶来亦未聞、偶々廃塵ノ  中ニ出デ吾郷ニ繁殖シ、汎ク天下ニ利シ、吾日用ノ巨擘ト  ナルノ幸福ヲ得ルコト亦大ナラズヤ
 しかし、北村四郎によればこれは同定の誤りで、ニガヨモギではなく、ユーラシア大陸に広く分布し、日本の中部地方に野生するハイイロヨモギ(Artemisia sieversiana Willd.)であるという。((二一))
〔ヒメヨモギ 野艾蒿〕 ヒメヨモギ(Artemisia feddei Lev et Vaniot)を『救荒本草』の野艾蒿とするのは『物品識名』の説である。『草木図説』草部巻一六には、
  按林氏第七種Artemisia santonica.羅 Severachtig Byvoet.蘭ノ  下ニ所説ノ形状、并阿須氏ノ図共ニ本條ニ同ク、但一花内  五小花ヲ収ト云ニアツテハ本條亦然ルヤ余未検、又林氏此  條ノ実ヲSemen China羅 Wormzaad.蘭 ナラント云?篤児亦  列漢多(レハント)産ハ本條ノ実ナルコトヲ云、本條ノ実ヲ検ルニ形味  頗ル相同ジ
 西洋の代表的駆虫薬セメン・シナの基原植物の一つArtemisia santonicum L.と同じものではないかという期待をもって林洞海訳『?篤児薬性論』を引用している。『?篤児薬性論』Joannes
Adrianus van de Water, Beknopt doch zoo veel mogelijk volledig handboek voor de leer der geneesmiddelen (materies medica). 2e verb.,1834のころには西洋でもセメン・シナの草状は明らかではなかったので、慾斎は薬効の類似性からArtemisia santonicum L.ではないかとの期待を寄せたのである。
〔ムロノキ 絲杉〕 『物品識名』をはじめ多くの本草書でネズ、杜松(Juniperus rigida Sieb.et Zucc.)とよばれた木である。『草木図説』木部巻一〇でこれをセイヨウネズ(Juniperus communis L.)に同定している。
 西洋の薬局方ではセイヨウネズの実または木が利尿剤とされていた。『遠西医方名物考』や『泰西本草名疏』はいずれもこのセイヨウネズに日本のネズ、杜松をあてていた。この混同が『草木図説』にもそのまま引き継がれているのである。
〔サルトリイバラ 亟戝〕 『草木図説』木部巻一〇に次のようにある。
  林氏Smilax Struik- Windeノ第五種Smilax China,China-
  Wortelノ下ニ所説ノ草状本条ニ的当ス、按ニ彼地所謂China  -Wortel者ハ専ラ土茯苓ヲ称ス、林氏亟戝土茯苓ヲ混同シテ  土茯苓ノ草状ヲ詳ニセス、故ニケムフル氏ノ説ニ従テ、専  ラ此状ニ於テソノ名ヲ下スモノノ如シ
 サルトリイバラ亟戝(Smilax china L.)は東アジアに分布するつる植物で、西洋で梅毒の治療薬(シナの根)として知られた。上記はハウトゥインの『リンネ自然博物誌』に拠ったような記述であるが、実際には『泰西本草名疏』やツュンベリーの『日本植物誌』をもとにこれを同定したものとみられる。『日本植物誌』には、ケンペルの『廻国奇観』の記事の影響がみられる。ケンペルは亟戝と土茯苓(Smilax glabra Roxb.)を同一視していたが、『泰西本草名疏』では亟戝を土茯苓から切り離している。
〔サビナ〕 木部巻八「未詳一種サビナ花戸称」および木部巻十「舶来種ノサビナ」の項でサビナをとりあげているが、学名を同定するにいたっていない。
 西洋の薬物書にサビナ(Juniperus sabina L.)が通経剤などとして記載されており、『遠西医方名物考』で紹介されて蘭方医の間で注目されていた。
 「未詳一種サビナ花戸称」について北村四郎はヒノキ科のセコイア(Sequoia sempervirens Endl.)と同定したが、((二二))「未詳一種サビナ花戸称」の標本が見つかり、標本の内・外の形態の比較研究から、中国からインドネシア産のPodocarpus imbricatus Bl.と一致することが判明している。((二三))
 以上のように『草木図説』には西洋流の薬用植物研究の影響が顕著にみられることが確かめられた。日本の植物と西洋の薬用植物とはおおむね異質であり、生きた植物の比較がほとんどできなかった事情から薬効(あるいは気味)の同不同を同定の重要な指標とせざるを得なかったことが窺われる。
 しかし、慾斎が薬用研究に重大な関心を寄せていたとしても『草木図説』には薬用についての細かな記載に乏しく、生薬としての重要な薬効部位(根など)の記載もない。『草木図説』は基本的に植物図鑑的性格のものであったと言える。((二四)) 
図と記文― 小野蘭山の影響 「余素より繪の事を解せず。然れども之を画工に託すれば、吾が意を竭(つ)くすを得ざらんことを恐る、故に自ら写して之を製す」(草木図説前篇引・原漢文)と、慾斎は絵の素人であることを自覚しながらも、あえて自分で植物を描くことにこだわった。
 リンネの分類法は、植物の性に重きをおき、生殖器官としての花の構造、とくに雌雄蕊を分類の指標としたので、植物の表現においても大きな転換をもたらした。中国や日本の本草図で、雌雄蕊の区別をふくめて花の構造を描いたものはほとんど見あたらないが、『草木図説』は、花の解剖図を附した。肉眼ではとらえられない花の微細な構造は、顕微鏡を利用して描いた。
 慾斎は、植物の表現において、本草図や画家の絵画とは異質な基準に立っていた。あくまで分類の指標となる形態や部位をいかに的確に描き分けるかが問題であり、「影に神無きは余の辞せざる所なり」(草木図説前篇引・原漢文)、図にたましいが入っていないという批判は甘受すると述べている。表現にたいするこの認識のちがい、これが、画家にまかせず、自分で描くことにこだわった最大の理由であった。
 植物の表現においては、西洋の植物図譜の精緻な銅版図法にならうことも可能であったが、慾斎は伝統的な木版出版を選び、師・蘭山の『花彙』(一七六五年刊)の木版表現法にならった。
 島田充房との共著『花彙』八巻のうち草部巻三・四、木部巻一~四の計六巻は蘭山が担当した。蘭山が担当した図は、葉の裏面を黒く塗りつぶし、葉脈を白く浮き立たせ、葉の表面は白で葉脈を黒く描く立体感あふれる表現法を生み出していた。
 『草木図説』はこれとは逆に、葉の表面を黒く塗りつぶし、



















葉脈を白く浮き立たせ、葉の裏面は白で葉脈を黒く描く方法をとっている。
 慾斎が蘭山から受け継いだ手法は図の描写法にとどまらず記文にもおよんだ。『草木図説』の引用書をみると、「啓蒙」として蘭山の『本草綱目啓蒙』を草部で九三、木部で一七の計一一〇引用している。この数は『泰西本草名疏』、ハウトゥイン、ドドネウスについで四番目に多い(図1)。引用例のいくつかを挙げると、
  啓蒙所説頗密故ニ略之(草部巻五・當帰)
啓蒙形状ヲ詳説ス故略之(草部巻五・防風)
形状啓蒙詳之故略ス(草部巻五・ササユリ百合)
栗ニ大小種々アルコト啓蒙之ヲ詳説ス故略之(木部巻八・ク  リ栗)
白粉仁共ニ採テ蝋油ヲ取ルコト啓蒙詳之(木部巻八・トウハ  ゼ烏旧)
啓蒙所説ノ形状可見(木部巻十・カラスノサンジヤウ食茱萸)
 こうした引用の傾向はほぼ全巻に共通している。慾斎が蘭山から受け継いだのは名物的な側面だけでなく、『本草綱目啓蒙』で発展させられた博物誌的面、とくに植物の形態の詳細な記載方法であった。

  四、『草木図説』稿本
 『草木図説』刊本は前述のように、初版本と新訂版とは、全体図が白黒の木版摺りで、花の一部分のみが着彩されていた。牧野増訂版は洋装本で、これには彩色は無い。木部の影印図本も同様に無彩色である。したがって、これらの刊本は、江戸期の彩色植物図の精華をかならずしも充分に伝えているとは言い難い。
 慾斎は刊本のほかいくつかの手稿本を残した。稿本としては次のものが知られている。
  a.『草木図説』稿本二十七巻(慾斎自筆、江崎家本)
  b.『草木図説』木部稿本(慾斎自筆)
  c.『草木図説』木部稿本(写本)
 a江崎家本は、収載図がすべて豊かに繊細に彩色されており、植物の姿を生き生きと描写している。慾斎の筆づかいや息づかいを伝え、また、刊本にない多くの未刊植物を記載している。植物史の研究に欠かせない資料である。
 江崎家本は、これまで一部の研究者に利用されてきたが、近年、色彩の退化、紙片の剥落など資料の劣化がいちじるしくなり、来訪者の閲覧に供することも困難となった。筆者の一人江崎孝三郎はこれを惜しんで、多くの人々に公開できるよう、全資料のデジタル化を試みた。本書は、このデジタル画像をもとに稿本の全容を紹介したものである。出版の事情により残念ながらモノクロ画像しか提供できない。
『草木図説』稿本の概要 江崎家本は、全二十七巻ともほぼ同形。美濃紙大の用紙の半折判である。装幀は紙こよりの仮綴じ本で、各巻の表紙にはそれぞれ、「草之一」、「草之二」・・・と題して植物の目録が記載してある。目録と本文とは一部標名などが異なる。合計一六三〇余点の草本性の植物を収めているが、数種のバラなどいくつかの例では木本類の植物も含んでいる。
 本文は、おおむね各丁・表に図を描き、各丁・裏に記文を配している。記文は料紙に直接書かず、別の紙片に書き入れて貼付している。はじめに写生図を描き、これに記文や解剖図あるいは印葉図を適宜付け加え、逐次原稿を完成していくという手法がとられていたことを示している。
 各巻の植物の配列は、「稿本・刊本対照表」でわかるように、とくにリンネの分類法の順とはなっていない。開花期を同じくする同類・近縁の植物が小群をつくって配列される例や、採集順と思われる配列もみられるが、おおむね無秩序で、配列に特別な配慮がはなされた形跡はない。
 「草木図説前篇引」の中で、「林娜氏の編次に原づき巻を分つ」と明言されている。古希を迎えた嘉永五年(一八五二)「前篇引」の書かれた段階で、すでにリンネの分類法に従って配列した浄書稿本が出来上っていたことになる。この点で江崎家本は、浄書稿本ではなく、草稿段階の手稿本と推定される。今日、リンネの分類法によって整理された浄書稿本は伝わっていない。浄書稿本の一部は、出版の際、伺本として天文方に提出されて改済をうけた。さらに販売許可願に付されて書物問屋から江戸町奉行所に提出されたことがわかっている。以後の行方は不明である。
 稿本の執筆開始時期は、即『草木図説』の起筆の時期にかかわる。起筆の時期は、「草木図説前篇引」に「此に従事するは已に七年」とある記事から推算すると、弘化二年(一八四五)頃となる。これは、山本亡羊に対する?葉標本による質問の開始を伝える山本榕室録『忘?竊記』(西尾市立岩瀬文庫所蔵)の記事によっても傍証される。『忘?竊記』によれば、弘化元年ころ起筆の準備を進め、弘化三年頃には最初の稿本図が出来上がっていたことになる。((二五))通説のように、平林荘に引退した時期ではなく、それより約一三年後ということになろうか。
 各植物の記載は、リンネの分類法による学名を与えており、植物の全形図についても刊本の図とおおむね一致している。しかし、解剖図や印葉図については刊本の図と比べてかなりの異動がみられる。
 稿本は、起筆後、晩年にいたる二十年間、綿々と綴られたものであった。この間は、開国前後の激動期をはさみ、ウォードの箱みられる植物の運搬技術の革新期であった。舶来植物が飛躍的に増加している。刊本には載らなかった新舶来の植物が稿本には記載された例も少なくない。
稿本が江崎家へ伝わった事情 『草木図説』稿本は、江崎美奈子さんによって、慾斎の遺稿類とともに長年大切に保管され、閲覧にも供されてきた。
 美奈子さんのメモによれば、慾斎の没後、『草木図説』稿本類は、飯沼家の本家筋にあたる大垣竹島町の本陣飯沼家(柳亭飯沼家)に移された。それは飯沼武右衛門長矩(一七九五~一八六五)が『草木図説』出版の際、多大な援助をなしたことに起因するという。
 長矩は、慾斎の義弟(養父長顕の二男)で、かつ義理の甥(慾斎の実妹美那の養子)にあたり、問屋と本陣役を兼ねた。慾斎の『草木図説』の研究にも全面的に世話をした。出版の際には、彫刻師を屋敷内に住まわせ、材料の入手、製本も殆ど武右衛門がして助けた。それで慾斎の死後、『草木図説』の稿本・校正本などが本陣に残ったという。
 長矩のあとは、四男武右衛門長温(一八三七~一九〇五)が受けつぐが、明治四年の廃藩置県後、本陣役は自然消滅する。明治五年学制が制定された際、長温は、大垣船町の船問屋谷九太夫らとはかって社中総代となり、大垣第二小学義校の設立を願い出ている。竹島町の旧本陣の建物は、すでに明治三年以降、名村泰蔵の洋学教授の場、ついで北校(藩学校)の仮郷学校々舎となっていたが、明治六年一月以降は興文第二小学義校の仮校舎とされた。長温はその主者となっている。明治十年、興文第二小学義校は旧大垣藩庁跡に移転したので、以後、旧本陣の建物は普通旅館として経営されることになる。
 明治十一年十月二十二日、明治天皇が北陸巡幸の帰途来垣、本陣跡に仮泊。天皇の行在所にあてられたことは、このころはまだ本陣の機能が完全には失われていなかったことを物語っている。長温は明治三十八年十一月十七日享年六十九歳で病没する。死の十四日前の同月三日、大垣城跡に「慾斎翁之碑」が建設され、その除幕式が盛大に挙行された。「慾斎翁之碑」建設の担当者筆頭は、武右衛門こと長温であった。長温は本家の代表として慾斎の記念事業にも重要な役割をはたしていた。
 長温のあとは男子がなく、船町の船問屋谷九太夫正鎌の子谷計之助を養子とし、長女やを配した。計之助は美濃俳諧の指導者として有名な谷木因(一六四六~一七二五)の子孫でもあった。計之助は、大阪三井銀行に長年勤務、帰垣して眞利銀行・穂美銀行等に勤め、大正二年享年六十二歳で病没する。
 計之助の長男憲吉は東京商船学校を卒業後、日本郵船の機関士となり北野丸欧州航路、孟買丸印度航路などに勤務するが、大正四年享年わずか三十六歳で病没する。
 計之助・憲吉がつづいて世を去ったあとの本陣跡は、計之助の妻やをが守ることになる。大正五年~九年頃やをは、大垣中学に在学中の孫・江崎一良と同居していたが、大正九年本陣跡を整理し、田町に移った。その時、慾斎の遺稿類が一良に譲られたのである。
 江崎一良(いちろう)は、やをの長女しゅんの子で、父は軍医江崎秀治。明治三十五年生まれ、大垣中学を卒業後、第八高等学校を卒業して九州大学医学部に入り、卒業後医学博士となり、台湾総督府台南医院医長として勤務した。
一良がやをから譲られたという慾斎の本には、『草木図説』稿本のほか新訂本(校正本)、『本草図集』・?葉標本などがあった。このうち?葉標本は、大正九年一良が東京の予備校に学んだ頃、一良の手で東京に運ばれたという。この?葉標本は一三五五点からなり、現在国立科学博物館(つくば)に保管されている。現在の標本には東京帝室博物館のラベルが付けられている。それには大正十三年十月十四日から昭和十一年十二月十四日にかけての日付で、科学博物館員であった根元寛爾の筆跡で学名と和名が記入されている。この事実ともうまく整合する。なお再同定が山崎敬、中池俊之らによって行われている。((二六))この標本は稿本記載の植物同定に重要な示唆を与えている。
 一良は戦後台湾から引き上げてのち昭和二十六年病没するので、残された妻美奈子さんが以後半世紀にわたって慾斎資料の保管と公開に尽力されることになる。
 『草木図説』稿本二十七巻の存在は昭和三十二年、美奈子さんより大垣市に連絡され、大垣市文化審議会によって確認され世に知られるようになった。昭和五十九年には『慾斎本草図集』八巻とともに岐阜県教育委員会から岐阜県重要文化財に指定された。昭和六十三年には稿本の一部八十図が木村陽二郎解説で八坂書房より『四季草花譜―〔草木図説〕選』として出版されている。
印葉図 印葉図とはいうまでもなく、生乾きの植物に墨肉を塗りこれを紙面に押印してできる一種の植物の拓本のことである。この印葉図法はヨーロッパにおいて発達し、とくにドイツのキニホフJ.H.Kniphof(1704~1765)の『植物印葉図譜』第二版Botanica in Originali seu Herbarium Vivum, 1757-1764のようなすぐれた印葉図集が出版されていた。この原著が江戸末期わが国に渡来し、いちはやく尾張の本草家の目にとまり彼らの倣うところとなった。水谷豊文をはじめ大窪昌章・吉田雀巣庵・戸田寿昌・丹波修治らが印葉図集を製作していた。
 美濃の本草家もキニホフの『植物印葉図譜』を見ていて、その写本として、江馬蘭斎が『本草千種』二冊を残し、慾斎は『キニポシ』五冊をつくっていた。((二七))これまで、美濃の本草家が実際に印葉図法を駆使していた事例に乏しく、「嘗百社博物学者たちの特技ともいうべき、植物の印葉図法(墨拓法)を慾斎は習い試みたことはなかったらしい」というような誤解も生まれている。((二八))
 『草木図説』刊本では、「印葉図」が草部で三八、木部で一七引用されている(図1)。そのほとんどは、「印葉図可併証」「印葉図可見」「印葉図最可証」「幾尼福氏印葉図ヲ見ルニ的当」「キニボ氏等各々図説」などと、慾斎がつくった印葉図ではなく、前述のキニホフの『植物印葉図譜』をさしたものであった。慾斎はキニホフを、幾尼法氏・幾尼福氏・幾尼複氏・キニボ氏・キニケル氏などと様々に表記している。
 刊本に掲げた印葉図はわずか三例、漢種蒼朮(巻一五)・木曽産蒼朮(ホソバノオケラ、巻一五)・ミヤマミヅ(巻二〇)にすぎない。いずれも葉が鋸歯状で葉脈に特徴のある植物である。全形ではなく、部分図として印薬図を掲げ、「其細筆シ難キヲ以テ掲印葉一図」「附印葉二図示鋸歯之状」「印葉見筋脈」などとことわっている。印葉図は板刻の過程で著しくそこなわれ、「増訂版』の場合にはいちじるしく貧弱な図となってしまっている。
 これにたいして稿本には慾斎自製と推定される印葉図が約五七点の多数収載されている。稿本の印葉図は、すべて別紙片に押印され、貼付または挟み込まれたものである。五七点の植物を分類してみると、シダ目一一種をはじめキク科九、ユキノシタ科八、イラクサ科五、ヒノキ科五が目立ち、これにセリ科四、ガガイモ科四、シソ科三、バラ科二、ナス科二などとなる。((二九))
 これらの植物は。複葉で葉姿が複雑であるか、葉縁の鋸歯状や葉脈に特徴のある種ばかりである。植物をよく選択して作製したことが窺われる。シダ植物が多いのは分裂葉が細かく描画が困難であったためと思われる。描画は部分図にとどめ、葉の全形を印葉図で代えたオクマワラビ(カグマノ一種、稿本巻六)やイノデ(稿本巻六)がよい例であり、ヒノキ科の場合も同様である。
 印葉図は植物を確実に記録するすぐれた方法ではあるが、印葉図のみでは描写された図には及ばない。慾斎の印葉図も例外ではなく稿本中の印葉図だけから種を鑑定できる場合は多くない。イワガネソウ(未詳、稿本巻六)は印葉図が鑑定を左石するはど有効な例である。稿本の描画はむしろイワガネゼンマイに近い形態であるが、脈の網状を印葉図がはっきり表現していることから、イワガネソウと同定できる。
 稿本の印葉図はいずれも葉片である。尾張の本草家たちが好んで製作した植物全形の印葉図とは著しく対照的である。「葉脈ノ細微ハ筆モテ尽シ難シ、而レドモ取リテ一徴卜為ス可キ者ハ独り一葉ヲ精クス、或ヒハ印(葉)図ヲ以テ之ニ代フ」(草木図説題言)というのが慾斎の立場である。『草木図説』は従来の本草図から脱却して西洋流の所謂解剖を主体とする描画法を特色としたが、印葉図も顕微鏡による拡大図と同様、全体図にとって代えようとするものでなく、あくまで植物の細部の正確な表現のため限定して用いられたものであった。
稿本に記載される未刊植物 稿本には、刊本所収の植物のほか、イネ・カヤツリグサ科やシダ・コケ類などを中心に未刊の植物約四七〇種を記載している。
 コケ類については、すでに高木典雄・川瀬仙吉の両氏による詳しい研究がある。((三〇))両氏は、総計コケ植物と判断される三〇図が稿本にあることを確認している。岩崎灌園の『本草図譜』の図と比較しながら、慾斎の図の正確さを指摘し、コウヤノマンネングサとオオカサゴケの図をその例として注目している。
 イネ科の例として、カラスムギが見られる。これには春日村古屋の地名が記載されている。春日村は伊吹山の東側に位置する岐阜県揖斐郡春日村の事である。慾斎自身が古屋経由で伊吹山に登ったのか、古屋地域には特に採集に出かけたことを意味している。春日村は伊吹山の半分を占めているので植物も一、三〇〇種類と豊富なフロラーを持っていて慾斎の研究の場としては好適地であったと思える。春日村には揖斐川の支流である粕川が渓谷を造っているが、稿本には大葉コバイモの図(稿本巻二七)があり、粕川の地名が明記されている。しかし今日までその実物を発見していない。
『草木図説』木部稿本 明治五年木部五巻が政府に献納され、翌年に報償金六六〇円が下賜されたとされる。((三一))政府に献納されたのは事実(五巻というのは一〇巻の間違いか)であった。実際には文部省博物局の求めで献本され、田中芳男や小野職愨のもとにあって、『新訂草木図説』と合わせて校訂・出版の試みがなされた(新訂草木図説緒言)。しかし、田中らの試みは実現せず、長年田中らのもとにあって、いくつかの写本がつくられた。
〈牧野本〉高知県立牧野植物園所蔵。巻二から巻十。巻一は関東大震災に遭い欠。一部は慾斎自筆で他は写本。和綴じ、見開き右に記文、左に図、図は彩色はなく、墨絵。草部刊本と同様、葉の表面を黒く塗りつぶし立体感をもたせ、記文・図ともに黒枠で囲んである。刊行のための浄書稿本の類か。写本の部分は田中芳男が写させたもので、博物館増補のものが加えられている。また藤野寄命の書き入れがある。別に明治十一年小野職愨自筆稿本『草木図説木部目録』がある。
 北村四郎編註『草木図説』木部、一九七七年保育社刊はこの稿本をもとに、巻一を東大本で補ったものである。
〈東大本〉東京大学理学部植物学教室所蔵。一〇巻。和名索引「草木図説後篇木部見出」付。明治二十二年藤野寄命写。
〈白井本〉国立国会図書館白井文庫所蔵。一〇巻一三冊。サイズ二六・五×一九・三センチ。和綴じ、雲母引き料紙を使用。見開き右に記文、左に図、図は彩色はなく、墨絵。無彩色。葉の表面を黒く塗りつぶしてある。田中芳男・小野職愨・藤野寄命らの注記がある。藤野寄命写本の転写本か。
〈杏雨本〉武田科学振興財団杏雨書屋所蔵(貴・二九六)。二帙一〇巻。サイズ二六・五×一九センチ。和綴じ茶表紙本。第一帙に「明治中期抄本」の記がある。巻一の見返しに「松山市郷野蔵」印。各丁・表に記文、裏に図。注記なし。別冊にイロハ引きの『草木図説後篇木部索引』がある。牧野本の抄写本か。本書はこの本の影印を載せた。
 なお、蔵書印の郷野は、郷野基厚である。郷野は明治元年松山に生まれ、明治二十二年愛媛師範学校卒業。ついで明治二十六年東京高等師範学校を卒業。愛媛師範学校の博物科教諭となる。大正六年没。北村四郎「草木図説木部解説」には、山本四郎氏よりの知らせとして、郷野基厚が徳島師範学校の木部蔵本を写したことを伝えている。徳島師範学校の木部蔵本については不明であり、郷野写本の素性は未詳と言わざるを得ない。
 杏雨書屋には別に白井本の大正五~六年早川転写本一〇巻(杏・五七〇七)がある。

  五、「草木図説遺稿」
 万延元年(一八六〇)帰国した遣米使節および文久二年(一八六二)帰国した遣欧使節の一行は、大量の植物種子をわが国にもたらした。飯沼慾斎はいち早くこれら両使節のもたらした植物種子を入手して、大垣に栽培し、観察している。
 この時期にはすでに『草木図説』草部は出版の最終段階にさしかゝっていたので、『草木図説』刊本にはほとんど反映されることがなかった。両使節のもたらした欧米産植物の一部は『草木図説』稿本にもみえるが、多くは稿本とは別の「草木図説遺稿」に記載された。((三二))
 「草木図説遺稿」は、飯沼順二氏の所蔵になるが、現在は岐阜市歴史博物館に寄託されている。美濃紙大で、用紙の右半分に植物の全体図を彩色で描き、これに花の解剖図を描いた紙片を貼付し、左半分に記文を貼付している。筆跡は明らかに慾斎の自筆である。形式は『草木図説』稿本とほゞ同様であるが、製本されてない。折りたたまれず、紙葉のまゝである。『草木図説』稿本よりは完成度が低く標題も無いが、『草木図説』稿本に連続する形式と内容を備えているので、「草木図説遺稿」と仮称される。
 図の状態は、彩色が鮮やかでかなり良好であるが、紙片が剥脱していたり、記文のみで図のないものも相当数ある。今日に至るまでにかなりの散逸を受けたようである。
 「草木図説遺稿」と呼べる資料は、断片もふくめて雑多な草稿からなる。本書では記載植物の由来の推定できるものを選んで紹介した。飯沼順二氏所蔵の二四点のほか飯沼顕三氏旧蔵の一点、国立国会図書館白井文庫所蔵の一点である。そのほか、京都の山本読書室による模写図六点が『異煦存真図(いいぞんしんず)』(西尾市岩瀬文庫所蔵)に収載されている。
 「草木図説遺稿」に記載される植物は、アメリカからの渡来品は二一点、ヨーロッパからの渡来品は五点、うち遣米使節がもたらしたと推定されるのは一八点、遣欧使節がもたらしたものは五点が確認できる。
 遣米使節がもたらした植物には次のものがある。((三三))
  ネモフィラ・ノラナ・ギンセンカ・ツンベルギア・センナ  リホオズキ・ウスベニカノコソウ・スイートアリッサム・  ヤグルマギク・アザミゲシ・カランドリーニア・ムラサキ  ツメクサ・オクラ・キンギョソウ・ワタ(リクチメン)・ペ  チュニア・ベニニガナ・アマ・スイートピー
 うち、ベニニガナは『草木図説』草部巻十七刊本に所載のものと同じである。刊本に間に合った唯一の例である。アマは国会図書館白井文庫所蔵「本草名家真跡」所載のもので薬用植物ではなく園芸品種のLinum perenne L.である。
 遣欧使節がもたらしたものは川崎道民と箕作秋坪が慾斎に贈ったもので、次のものがある。
コムギセンノウ・センニチコウ・クラルキア・リナリア-ビ  パルティータ・ニゲラ
慾斎は遣米使節からすくなくとも百数十種、遣欧使節からは「一八五品」((三四))の大部分を入手していたものと推定される。「草木図説遺稿」には後者が著しく少ない。すでに晩年にさしかかっていた。慾斎には残された時間があまりにもすくなかった。刊本と稿本それに「草木図説遺稿」は一体のものとして考察されるべきであろう。

水野瑞夫(自然学総合研究所長)・江崎孝三郎(元大阪府立大学教授)・ 田中俊弘(岐阜薬科大学教授)・酒井英二(岐阜薬科大学講師)・遠藤正治(愛知大学非常勤講師)

  参考文献
(一)飯沼慾斎生誕二百年記念誌編集委員会編『飯沼慾斎』、思文閣出版  一九八四年。
(二)水野瑞夫・遠藤正治「その後の『飯沼慾斎』研究」『岐阜薬科大学  紀要』第四六号、一~一一、一九九七年。
(三)『慾斎研究会だより』№一~一〇九、一九八二~二〇〇六年。
(四)遠藤正治「『蘭山先生日記』に見る慾斎Ⅲ」『慾斎研究会だより』№
  三九、四~七、一九八七年。同「同Ⅴ」『慾斎研究会だより』№四七、  六~七、一九八九年。
(五)青木一郎「飯沼慾斎 ―医学と人―」『飯沼慾斎』、一九六~二〇五、
  一九八四年。
(六)飯沼慾斎自筆『覚書』、飯沼順二氏所蔵・岐阜市歴史博物館寄託。  遠藤正治「文政十一年の飯沼慾斎」『郷土研究岐阜』第三四号、一〇  ~一一、一九八三年。
(七)田中俊弘・水野瑞夫・川瀬仙吉・吉田国二 「飯沼慾斎の『根尾山  採薬秘笈』収載植物について」『薬史学雑誌』二一巻二号、八六~九  三、一九八六年。
(八)慾斎の伊藤圭介あて(嘉永四年)七月廿九日付書簡、国立国会図書  館伊藤文庫所蔵。遠藤正治「『草木図説』執筆期の飯沼慾斎」『飯沼慾  斎』、二六〇~二八二、一九八四年。
(九)飯沼慾斎自筆稿本『大黄私考』、武田科学振興財団杏雨書屋所蔵。  安江政一「飯沼慾斎と『大黄私考』」『飯沼慾斎』、二三五~二四四、  一九八四年。
(一〇)美濃のポトガラヒィ事始め展実行委員会編『美濃のポトガラヒィ  事始め ―美濃の蘭学と写真術― 』、岐阜県営業写真家協会、一九九  〇年。
(一一)福原(邑田)裕子「慾斎の茶道書『雑筆記』について」『飯沼慾  斎』、三〇三~三〇五、一九八四年。
(一二)磯野直秀「東莠南畝讖、一八世紀前半の動植物図譜」『慶應義塾  大学日吉紀要』№一八、六一~六八、一九九五年。
(一三)遠藤正治「飯沼塾とその門人の動向」田﨑哲郎編『在村蘭学の展  開』、思文閣出版、一九九二年。
(一四)遠藤正治「美濃における蘭学展開の性格―『蘭学実験』から『草  木図説へ―」『実学史研究Ⅲ』、思文閣出版、一一七~一五〇、一九八  六年。
(一五)幸田正孝「『草木図説』の出版 ―宇田川興斎の「勤書」(早稲田  大学蔵)などにみる―」『一滴』第一三号、津山洋学資料館、一~九  四、二〇〇五年。
(一六)遠藤正治「永楽屋東四郎の書簡と『草木図説』の出版過程」『慾  斎研究会だより』№七五、二~八、一九九六年。
(一七)遠藤正治「『草木図説』執筆期の飯沼慾斎」『飯沼慾斎』、二六〇  ~二八二、一九八四年。
(一八)中井猛之進「トゥンベルジュ氏ノ植物学上ノ略歴ト其著『日本植  物誌』に就いて」Thunberg,Flora Japonica,植物文献刊行会、一~一  六、一九三三年。
(一九)木村陽二郎「ナチュラリスト・飯沼慾斎」『飯沼慾斎』、九〇~一  〇〇、一九八四年。
(二〇)井波一雄「慾斎の生薬における思想」『慾斎研究会だより』№五  七、二~五、一九九二年。
(二一)北村四郎『北村四郎選集Ⅲ 植物文化史』、保育社、二二〇~二二  四、一九八七年。
(二二)北村四郎編註『草木図説』木部下、保育社、六九七、一九七七年。
(二三)水野瑞夫・田中俊弘・酒井英二・□□・遠藤正治・邑田仁「飯沼  慾斎の『未詳一種 サビナ花戸称」の標本について」『薬史学雑誌』  二五巻二号、一二一~一二七、一九九〇年。
(二四)後藤尚夫・田中俊弘「『草木図説』にみられる人参」『慾斎研究会  だより』№六八、二~六、一九九五年。
(二五)遠藤正治「弘化年間の飯沼慾斎」『慾斎研究会だより』№二六、  四~七、一九八四年。
(二六)「国立科学博物館所蔵飯沼慾斎?葉目録」『飯沼慾斎』、三二四~  四九五、一九八四年。
(二七)遠藤正治「慾斎と伊藤圭介の交遊とキニホフ『植物印葉図譜』」『慾  斎研究会だより』№一六、一~三、一九八三年。
(二八)上野益三『有終の美』『慾斎研究会だより』№三〇、二~四、一  九八五年。
(二九)水野瑞夫・遠藤正治「『草木図説』の印葉図について」『慾斎研究  会だより』№四三、二~八、一九八八年。
(三〇)高木典雄・川瀬仙吉「 飯沼慾斎遺稿にみられるコケ植物」『飯沼  慾斎』、一三〇~一四〇、一九八四年。
(三一)白井光太郎『改訂増補博物学年表』、大岡山書店、一九三四年。
(三二)遠藤正治「遣米・遣欧使節齎来の植物を記載した『草木図説遺稿』  の発見」『慾斎研究会だより』№九〇、二~八、二〇〇〇年。
(三三)遠藤正治「遣米使節のもたらした植物」『郷土研究岐阜』九〇号、  岐阜県郷土資料研究協議会、七~九、二〇〇二年。
(三四)遠藤正治「伊藤圭介が大河内家に送った植物」『伊藤圭介日記』  第七集、名古屋市東山植物園、二〇二~二一三、二〇〇一年。
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本集成の特色と活用法

(1)江戸時代の政治・経済・文化・学問などを把握するための基本的資料集…植物・作物のその土地の呼び名、形態、生態などを記述。美しいカラーの彩色図も、口絵で掲載。

(2)日本博物学の歴史を辿ることのできる書物…現在流布されている植物図鑑の基本となった図譜集。彩色図は美しくかつ正確なため、現在でも利用可能。

(3)完全版としての「草木図説」…約1600種類の草類(その中で、548種類は、「江戸時代版」でも「明治時代版」でも掲載されていない)と約600種類の木類の、原画と原文を掲載。「草木図説」の原画と原文の全ての掲載は初めてである。

(4)完璧な事項索引…植物の和名・漢名・生薬名をすべて拾いだし、読みがなをふす。

(5)充実した解説と解読文…「草木図説」の成立、由来、内容、学問的価値などを詳述し、解読文を併載。初心者にも利用しやすいものとした。

(6)人文科学(日本文学、日本史学、民俗学、文化史学、考古学、言語学)、自然科学(博物学、鉱物学、生薬学、植物学、園芸学、農学、林学、動物学、農林生物学、科学史学)、社会科学(日本政治学、日本経済学)の参考資料…現在入手困難な文献を集大成。

「草木図説」刊行の意義

(1)「草木図説」の刊行について、今までの経緯を記すと、以下のようになる。
①1856(安政3)年「草木図説・草部」(第1帙)を刊行…原画から木版画を起こし、版下とする。植物の解説部分は、木版活字を使用する。

②1861(文久1)年「草木図説・草部」(第2帙・第3帙)を刊行…原画から木版画を起こし、版下とする。植物の解説部分は、木版活字を使用する。

③1862(文久2)年「草木図説・草部」(第4帙)…原画から木版画を起こし、版下とする。植物の解説部分は、木版活字を使用する。

④1875(明治8)年、田中芳男・小野職? 撰「新訂草木図説・草部」(全20巻)を刊行…絵画、解説も、共に江戸時代の版を活用し、撰者が、学名と科名を追記する。

⑤1907(明治40)年、牧野富太郎 増訂「増訂草木図説」(全4冊)を、東京の成美堂から刊行…絵画も解説も、ほとんど牧野富太郎博士の手が加わり、原形をとどめていない。

⑥1977(昭和52)年、北村四郎 編註「草木図説・木部」(上下2冊)を、保育社から刊行…絵画は、原画から起こされた版下用の木版画を使用。解説文は、新たに解読を行って、金属活字を用いて、組み版を行っている。

(2)江戸時代の中期以降、洋学の輸入とも相まって、形態、生態、活用方法などを懇切かつ丁寧に記載した、美麗でかつ科学的な植物・動物・鉱物図譜が製作された。これらの図譜類は、『享保・元文諸国産物帳』や『江戸後期諸国産物帳』の系譜を受け継ぐ資料で、これらの成果物にヨーロッパの科学精神が注ぎこまれて、優れた図譜が誕生したと言える。この「草木図説」も、小社で刊行した二つのシリーズに収録された資料類と連関するもので、より内容が豊富化され、より科学的に体系化された知的生産物であることに、大きな特色がある。ありていに言えば、記載された項目の多様化と表現能力の充実化、科学的な知識の体系化、引用される文献からの抽出能力の高度化、図譜の描画能力の緻密化と高度化など、さまざまな事柄が指摘できる。そして、これらの事象が、結合された大きなうねりとなって、この時代以降の文化・芸術の発展と、それらを基盤とした産業の進展に寄与したことは、否定できない事実であろう。

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