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近世植物・動物・鉱物図譜集成 第4巻 草木図彙 (2)

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近世植物・動物・鉱物図譜集成 第4巻 草木図彙 (2)
江馬 元益『草木図彙(2)』
〈2006年/平成18年2月刊行〉

             解 題
(一)江馬活堂の生涯
 著者の江馬活堂は、一八○六(文化三)年三月二十四日に、大垣藩医の江馬松齋の長男として藤江村に生まれ、一八九一(明治二十四)年一月二十四日に、没している。享年八十六歳。幼名を益也と称した。後に、元益と称し、字は子友。藤渠、万春と号した。活堂は引退後の号で、格物堂とも称した。四代目の江馬春齢にあたる。彼は、経書を小川四郎衛門及び菱田毅齋に學び、門人の吉川廣簡から、蘭學の手ほどきを受けている。
 ここで、この資料とそれらが記された時代背景についての理解を容易にするために、幕末期の偉大な蘭學者の江馬活堂の生涯の記録に触れてみよう。この年表の作成にあたっては、上野益三『日本博物學史・補訂』(一九八六年、平凡社)、磯野直秀『日本博物誌年表』(二○○二年、平凡社)、遠藤正治「美濃における蘭學展開の性格-『蘭學実験』から『草木圖説』へ-」(『実學史研究III』所収、一九八六年、思文閣)を参照させて頂いた。記して、謝意を表する次第である。

*一八○六(文化三)年三月二十四日
美濃國安八郡の藤江村において出生。医師で洋學者の江馬元齢は実弟、画家で漢詩人の江馬細香は叔母にあたる
*一八二○(文政三)年
齢十五歳にして、江馬家の家督を相続し、四代目の江馬春齢を襲名し、六十石を賜る。後に、二十石を加増されて八十石となる。吉安三英などと共に、飯沼慾齋宅での蘭書購読会に参加し、ヨーロッパの學問の偉大さと精密さを体得する
*一八二二(文政五)年
齢十七歳にして、水谷豊文の門下生となる。水谷豊文亡き後は、山本亡羊に入門し、伊藤圭介を生涯の友人として、共に學問活動に研鑽する。自邸に庭園を設け、舶来の種を含む千余点の植物を栽培し、それらを自ら写生した。これらの写生圖を集大成した作品が、ここで紹介する『草木圖彙』であることは言をまたない
*一八二四(文政七)年
京都に遊學し、藤林普山から医學を教授される
*一八三二(天保三)年
この年から、一八五八(安政五)年にかけて、五度、大垣藩医として、江戸に勤務する。この間、宇田川榕庵に西洋の科學を學び、青地林宗、坪井信道、大槻俊齋、杉田立卿などと交遊する
*一八四二(天保十三)年
「療治口訣」(二巻)が成立。実用的な治療書で、講義録を編纂している。門人の筆記になる
*一八四三(天保十四)年六月六日
大垣を出立して、東海道経由で江戸に向かう。この日、文通のみのつきあいであった伊藤圭介に、始めて会う
*一八四三(天保十四)年六月十一日
駿河の吉原付近で、尾長鶏を見る。土地の人は、ゴマノセウゾクと呼んでいた
*一八四三(天保十四)年六月十六日
江戸に到着。以後、一八四五(弘化二)年十月まで、江戸に滞在する
*一八四三(天保十四)年閏九月九日
赭鞭会の会員でもある福岡藩主黒田斉清(号は樂善堂)侯の眼病を診察したことが機縁で、本草についての質問を受け、さまざまな質疑応答を行う。また、侯の庭園の植物を観察し、ホッタイン『博物誌』、ヴァインマン『花譜』などの貴重な藏書を閲読する。また、「侯の眼病は内障眼(底翳)で、不治の病の可能性がある」ことを告知する
*一八四三(天保十四)年閏十一月十三日
黒田斉清(号は樂善堂)侯が、薩摩藩主の島津兵庫から贈られた草木の?葉を鑑定するために、他の物産家たち十一名と共に、招待される。これに先立ち、馬場大助主催の研究会には、毎回出席していたことが知られている
*一八四四(弘化一)年
富山藩主の前田利保に招聘され、物産を論じる
*一八四四(弘化一)年七月
幕府の医學館において、『本草綱目』を講義
*一八四四(弘化一)年七月二十四日
前田利保の江戸藩邸において、赭鞭会が開かれ、出席する。他に、武藏石壽(石壽)、田丸六藏(寒泉)、馬場大助(資生)、雲停(関根雲停)も参集する。この日を越して以降の赭鞭会の記録は知られていない
*一八四五(弘化二)年四月十七日~四月十九日
幕府の医學館において、薬品会が開かれ、鑑定手伝人の一員として参加する
*一八四五(弘化二)年十月一日
江戸を出立して、大垣に向かう
*一八四五(弘化二)年十月一日
大垣に到着
*一八五三(安政三)年
「療治口訣補遺」(二巻)が成立。実用的な治療書で、講義録を編纂している。門人の筆記になる
*一八六八(明治一)年
大垣藩の議員に就任
*一八七九(明治十二)年
藤江村の村議会議員に選出され、議長に就任
*一八九一(明治二十四)年一月二十四日
逝去。享年八十六歳

(二)『草木圖彙』の書誌學的考察
 『草木圖彙』(十帙六篇六十九冊、杏三二二八)は、「武田科學振興財團杏雨書屋」での所蔵しか知られていない。内容構成は以下の通りである。
*目録編
木部  一冊(外題「本草圖彙目録 木ノ部」)
草部  二冊(外題「本草圖彙目録 乾」・外題「本草圖彙目録 坤」)
目録補 一冊(欠本)
*初編(外題「藤渠草木圖彙」)
草部  九冊   木部  四冊
*二編(外題「草木圖彙二編」)
草部  九冊   木部  四冊
*三編(外題「草木圖彙三編」)
草部  八冊   木部  三冊
*四編(外題「草木圖彙四編」)
草部  八冊   木部  二冊
*五編(外題「草木圖彙五編」)
草部  九冊   木部  四冊
植物部 一冊   動物部 四冊  動物部・石類部 一冊
*六編(外題「草木圖彙六編」)
合計 七十冊(欠本一冊)
 草部二七六一種類、木部一一四一種類、動物部・石類部二百三十数種を数える。動物部・石類部は描きかけの圖や不完全な説明が多く、正確な種類を計算できなかったが、おおよその数字で把握することができた。なお、この資料は、門人の岡田正堅の手を経て、伊藤篤太郎が旧蔵していた。旧蔵者の伊藤篤太郎は、「本草圖彙目録 乾」の外題に、「美濃大垣江馬活堂翁寫生/本草圖彙 六十六冊/同 目録 三冊/同 目録補 一冊/水谷豊文/伊藤錦?/山本亡羊/三先生鑒識」と書き記している。また、「本草圖彙目録 坤」の末尾に、「旧本を江馬春藏に与えるために謄寫した」旨が記述されている。明治三年のことである。この「草木圖彙」は、内容から推測して、弘化・嘉永年代(一八四四年~一八五三年)に、その骨格が形成されていたと考えられている。江馬活堂の著作・編纂物には、前述の書籍以外に、以下の資料が知られている。いずれも刊年が不明である。
*『庖厨要方』(翻訳書)
*『藤渠漫筆』(四十篇一一九冊)
*『近聞雜録』(一○○巻)
*『續近聞雜録』(一三巻)
*『藤渠江馬先生常用方彙』(医學書)
*『失乙牡兒鐸草木目録』(一巻、編著)
*『圖彙目録』(三巻、寫本)
*『薬物本草』(七巻、オスカンプ『薬用植物圖鑑』の寫本)
(三)『草木圖彙』の内容的考察
 『草木圖彙』は、一八五六(安政三)年に私家版が刊行された、飯沼慾齋の『草木圖説』を意識して書かれた作品であることは疑いをはさむ余地がなく、合計三九○二種類の植物圖は、一八○○種類の植物しか記載されていない『草木圖説』をはるかに上回っている。
 しかし、名称のイロハ順に記載されてされていることから推し量ると、植物種の形態を基本に科ごとに分類し、ラテン語による世界共通の名称方法(二名法)を確立した、リンネの方式とは全く異なっている。また、山草、穀物、菜類、果実類など、有用植物的な分類を行う「本草綱目」的な方式とも、一線を画している。どちらかと言えば、植物の名称を網羅して整理・分類する名物學の研究様式を踏襲していると推測される。ともあれ、著者の意圖するところは、日本に自生する植物や生息する動物たちの整理・分類・統合にあったのでああろう。その研究を実行するための武器が西洋からもたらされた科學思想であったはずであるが、この論攷を一読する限りは、そのエッセンスなるものを見いだすことができなかった。飯沼慾齋との學問的交流があるにもかかわらず、彼の學問的な手法とのこのような差異は、どのように判断すればよいのであろうか?医學・薬學的な蘭書に耽読するあまり、植物學書や博物學書の精読はなおざりにされていたのであろうか?
 だが、編者は不幸にして一読する機会を得なかったが、『失乙牡兒鐸草木目録』を繙いてみれば、この疑問にある解決がもたらされるのではないかと、秘かに考えている。シーボルト、ツンベルクなどの著作物を解析して、アルファベット順に記載された植物の學名に、和名や漢字名を付した資料である。内容を類推すると、江馬活堂が植物・動物・鉱物に関して、西洋の科學的かつ体系的な分類方法に興味を持っていたことは疑いえない。江馬活堂の中国や日本に関する本草學の博學な知識は、どの地点において、どのような形態で。西洋の科學思想と邂逅あるいは切り結ぶのであろうか?これらの研究に関しては、編者の不備もあり、後世の研究者の手に委ねたい。

 二○○六年一月

                                         編者識
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