商品コード:
ISBN4-7603-0150-X C3325 \250000E
近世絵図地図資料集成 第9巻(越前・若狭/加賀・能登・越中[1])
- 販売価格:
-
250,000円 (税込:275,000円)
[第9巻]越前・若狭/加賀・能登・越中(1)
(2005/平成17年8月刊行)
[第10回配本]
〈第I期・全12巻・全巻完結〉
The Collected Maps and Pictures Produced in Yedo Era--First Series
近世繪圖地圖資料研究会 編
A2版及びA1版・袋入・全12巻・限定100部・分売可
各巻本体価格 250,000円
揃本体価格 3,000,000円
鉛色の空の下で・近世の金沢を読み解く
1、はじめに
北陸の大都市・金沢は、太平洋戦争中でも空襲の被害に遭わなかった。大都市で空襲の被害に遭わなかったのは、全国でも珍しい。戦後の「内灘闘争」のイメ-ジから、金沢は軍事都市のように思われているが、実際にはそうではない。空襲の被害に遭わなかった、という幸運から、戦後の金沢は一大観光都市となった。その理由として挙げられるのは、近世の町割りがまだ至る所に見出せる、という点にあるのではないか、と考えられる。
典型的な城下町の面影を残す金沢は、道路が直角に交わる所が少なかったり、鍵の手状に曲がりくねった道路などの、近世以来の城下町の面影があちこちに残っている。道路がT字形に交わらない、という形は、城下に攻め込まれても、あちこちで軍勢を食い止められる、という防衛上の政策である。 金沢の町を歩いていると、まっすぐに歩いている筈なのに、いつしか目標とはかなり隔たっていて、いつまでたっても目標にたどり着けない、という経験や、車で走っていてもいつも螺旋状に同じような場所を走っていた、という経験をした人が多いはずである。
これらはすべて近世の城下町に特有の道路の配置なのである。このような城下町の建設は、近世社会では大なり小なり、どの城下町でも取り入れられたものである。ただ、かなり大きな規模で残っている都市は、現在では珍しくなってきている。仙台にしても大阪にしても、名古屋、広島、福岡などの都市では、太平洋戦争中に空襲の被害を受けた所から、戦後の都市計画の中でかっての城下町の面影は、どこでも大半が失われてしまった。今では部分的に残っているくらいである。
地方の小都市の場合には、近世でも城下町そのものが小さかったから、金沢のように大規模に城下町の面影が残っている都市は、いまは全国的にもほとんどない。同じ日本海側の大都市である新潟は、近世には、港町であって、城下町ではなかった。近世の絵図地図を見てみると、金沢の町は犀川と浅野川に鋏まれた都市として描かれている。この構図は現在でも変わりがない。近世社会では、どちらの川周辺が、藩からは重要視されていたのかは、絵図地図を見ているとおよその見当がつく。近世ではまちがいなく浅野川周辺であつたろう。寺や神社、街道やその周辺の家並みの配置などから、そう断言できるのである。
明治以降は、犀川はかなり広い河原を持ち、花柳界の賑いもこの川周辺に移ったようだから、人々の流れも浅野川周辺から移動したのではないか。かつての遊廓である「東の郭」は浅野川のほとりにあった。犀川は暴れ川で、かなりの急流だったと見られる。 金沢の絵図地図を見ていて不思議なのは、城の廻りに広い濠が描かれていないことである。このような城は全国的にも珍しい。犀川と浅野川はどの絵図地図にも描かれているが、城を取り囲む濠は見当たらない。だが城である限りは、濠に変わる防衛施設を考えたはずである。本稿ではその辺りも少し考察した。
北陸地方へ行くと、まず目に付くのが黒光りする瓦屋根の家並みである。全国各地を歩いてみても、あの黒光りする金沢の瓦屋根の家並みは独特の雰囲気がある。関東地方や名古屋圏では、瓦屋根はもう少し明るい。
北陸の金沢では、秋から冬にかけては、天候の変化が激しい。地元では「弁当を忘れても傘を忘れるな」という。それくらい天気の変化が激しい。朝は晴れていたから、と思っても、一天にわかにかき曇り、大雨になるなんていうことは珍しくない。そういう天候だから、傘は必需品なのである。年間を通して湿気も多い。
それに梅雨の時期の金沢は、空一面が重苦しい鉛色になる。これは秋から冬にかけても変わらない。加えて黒光りする瓦屋根の家並み。梅雨の時期や秋から冬の時期の金沢は、かなり重苦しい雰囲気の町になる。夏の晴れ間は一時の例外である。
加えて、浄土真宗の教義である「内省」という県民性もある。金沢の人達が寡黙であるという理由のひとつは、長年培われてきた、このような気候風土が関係している、と考えられる。この点が、外側の人間に対して、高圧的になる原因と考えられる。
金沢をはじめとした北陸地方一帯は、かつては一向一揆の拠点であったから、現在でも東西両本願寺の巨大な伽藍が金沢駅の近くにそびえ立っている。その威容は、まるで城のようである。内部は、現在みることができる大阪城や姫路城、松本城などの雰囲気とはまったく違っていて、建物の外側の雰囲気は城といってよい。
近世やそれ以前の城のような雰囲気を今に伝える真宗寺院は、現在は富山県に所属する、井波町の瑞泉寺や城端町の善徳寺に、その面影をみることができる。その寺の構えは紛れもなく城である。それも立て籠り用の城である。寺の門を潜るとすぐに、石垣の巨大な屏風のような壁が現れる。そこを左右に別れて進むと、壁の裏側は巨大な池になっているのである。
合戦の時に、この寺が攻められたら、池の水は満水にしてあるはずだし、軍勢が足をとられるようになっている。加えて、水に毒でもまいておけば、かなりの兵力を削減できるはずである。城(寺)内部で使用する水は、大石・小石・砂・木炭・お茶の葉などで漉したものを飲んだから、池に毒をまいておいても大丈夫だった。
現在でも、寺に行くと、南天や熊笹、牡丹などの植物をはじめとした、様々な植木が植えられている。これはダテに植えているのではなくて、ひとつひとつに意味がある。植物はその根や茎、葉、花すべてが薬草になる。そのための栽培なのであり、篠竹は先を焼けばすぐに弓矢として武器になる。寺の植木は、そうした備えだったのである。平和時には観賞用の植物となったが、元々の意味は違っていたのである。それに寺や神社の屋根がなぜに青銅で葺かれているかといえば、イザというときに鋳つぶして鉄砲の弾にするためなのである。寺の鐘もそうである。寺は軍事用の備えだったのである。
金沢からそう遠くない羽咋市には、妙成寺という古刹がある。ここには有名な五重塔がある。ここにある五重塔は、加賀藩の藩主であつた前田利常の母親の寿福院の追善供養のために、70年かかって建てられたものだという。この寺は1293(永仁元)年に日蓮の孫弟子にあたる日像の建立と伝えられている。この寺は能登一番の大伽藍を誇っていて、浄土真宗の寺ではなくて、日蓮宗のそれである。
金沢の絵図地図をみていると、あちこちに「山伏」と記載された書き込みがある。「修験」という処もある。これらの人達は、近世には漂泊を許されず、定住させられ、民衆間の情報収集などに利用されていたはずである。また神社の書き込みも至る所にみられる。これらの点から見てみると、「真宗王国金沢」といっても、全国各地の城下町とそれほど大きな変化は見られない。
能登では、もうひとつ大伽藍を誇る寺がある。この寺は、はるかかなたの海の上からも望めた筈である。それほどの威容を誇っている、この寺は、門前町にある総持寺である。現在では、この総持寺は曹洞宗の大本山ではなくなっている。しかし、1898(明治31)年に火災で焼けるまでは、曹洞宗の大本山であった。それまでの総持寺は、全国に末寺が1万6391ケ所あったと言われている。境内にも大小70あまりの堂塔伽藍があった。現在でも、経蔵と伝燈院は、火災以前に築造された建物である。
この総持寺は、1321(元享元)年に開かれたといわれる。永平寺と並ぶ曹洞宗の寺である。経蔵は、加賀藩の6代藩主・前田吉徳より寄進され、1743(寛保3)年に完成したものである。現在は石川県の指定文化財になっている。このように一向一揆の拠点であった金沢であり、北陸地方であるが、寺院は必ずしも真宗一色ではない。それは、この「近世絵図地図資料集成・第9巻」で金沢城下の寺院配置をみても確認できる。こうした点が確認できるのは、この「近世絵図地図資料集成・第9巻」の大きな特徴である。歴史家の中にも、北陸が一向一揆の拠点であったことから、寺院は真宗一色であると、断言している人があるが、それは明らかに間違いである。現地を歩きもせずに、いくつかの史料だけで物を言うのは、厳に慎まなければならない。 総持寺から少し金沢寄りの所に、自殺の名所としての「ヤセの断崖」がある。作家の松本清張が『ゼロの焦点』という小説を書き、映画やテレビで紹介される機会が増えたことにより、ここを訪れる人も増えた。日本海に突き出した55メ-トルの断崖から下を見ると、たしかに吸い込まれそうな気がする。この「ヤセの断崖」から歩いてすぐの所に、「義経舟かくし」といわれている入り江がある。よく知られているように、兄の源頼朝から追われる身となった義経一行は、奥州平泉の藤原氏を頼って、北陸の海岸線を新潟付近まで北上し、それから平泉へ入ったと言われている。現在の小松市には、「安宅の関跡」がある。歌舞伎の「勧進帳」で有名になった場所である。この「義経舟かくし」の入り江は、両岸が切り立った崖になつていて、間口は5メ-トル、奥行きが100メ-トルはある深い入り江になっている。たしかに外からは見えにくい地形になっている。ここは、現在は富来町になっている。
「ヤセの断崖」をはさんで北側には、弁慶と義経にまつわる伝承が残る「関野鼻」もある。どのような道をいくのか、弁慶と義経が岩を試し切りにして決めた、といわれている場所である。日本海側には、こうした義経関連の伝承を伝えている場所が、あちこちに残っている。このような場所を「近世絵図地図資料集成・第9巻」で、現在地と比較検討してみると、義経一行の通ったといわれている道筋も、かなり明らかになるかもしれない。ただし、史実としては、義経一行が北陸路をずっと北上したか否かは定かではない。義経一行が奥州・平泉に向かった逃避行のル-トは、いくつもあって、例えば、一行は立山を越えて信州・松本へ出て、東京の八王子から埼玉県の川越、東松山、行田を抜けて、利根川を渡り、栃木県の佐野、日光から会津を経て平泉へ入った、という伝承もある。
別の伝承では、義経一行は安宅の関で富樫介に義経であることを見破られ、家臣の半分を関に留め置かれ、その家臣は信州の松本に移され、その後に筑波山の麓に移された、という伝承もある。そして最終的に、現在の埼玉県川越市に定住させられた、というのである。この人達は、長吏といわれる一団になった。
「近世絵図地図資料集成・第9巻」には、この安宅の関に関する絵図地図は収録していない。次年度に回す予定である。この安宅の関は日本海に突き出た地にあった様子がよくわかる。関の前には大きな川が流れ、その川は日本海に注いでいる。川を渡ってすぐの所に真宗の寺があり、この寺の横を金沢の方向に向かって走っているのが旧北国街道である。 この北国街道に沿って、かつては「藤内」の集団が居住していて、現在では、地域は確認出来なくなっている。「藤内」の集団は、明治になるまでは街道警備の役割を担っていたものと推定される。ただし、いつ頃から此の地に「藤内」の集団が居住するようになったのか、詳細は不明である。義経一行が安宅の関を通過した頃に、すでに居住していたとしても、その頃から「藤内」と言われていたのか、あるいは自らそう称していたか、などはまったくわからない。関の下役を担っていた少数の人達が、当時からいた可能性はある。
2、安宅の関
北陸地方は、古代から歴史の舞台に登場する地域であるから、城と名のつく史跡が、現在でも至る所に存在している。国絵図を見ると、越前国(現在の福井県)では、日本海から少し奥に入った地域に、城跡が点在しているが、若狭国では城跡は海沿いに点在する。 加賀国(現在の石川県)ではやはり日本海に沿って様々な城跡が確認できる。この「近世絵図地図資料集成・第9巻」にも金沢城などの詳細な城絵図と城下町絵図を収録した。その他の国絵図や郡絵図にも、「城跡」と記載された史跡があちこちに確認できる、貴重な史料となっているのである。北陸地方は、古代には我が国の表玄関であり、政治・経済の中心地であった京都とは、関係が深かったから、城を必要とした政治勢力が、早くから各地に生まれていたのである。一向一揆の勢力もそのひとつである。
城は、現在では天守閣を備えた姫路城のような建物を想像しがちだが、戦国時代の末期頃までの城というのは、土塁を築き、その上に、少し前まではよく見られたような木、造二階建ての学校のような建物が、いくつも建ち並んでいた。そういう姿が城と呼ばれていたのである。一部の漫画に見られるような、天守閣を備えた城はなかったのである。その城であるが、城というとその地域の支配者である武将が建設したもの、というイメ-ジがあるが、城の中には、百姓が立て籠り用に作った城もあった。北陸に限らず、全国各地に山城・平山城の跡が残っていて、それらはすべて地域の支配者である武将が作ったものではない。城跡のなかには、そうした百姓が作った城も含まれている。 百姓がなぜに城を建設したのかというと、合戦に巻き込まれた時に、逃げ込むための避難所として建設したのである。敵対している勢力同士が合戦に及んだ場合には、戦場近くの百姓の村は、たいていの場合、焼きはらわれるのが常だった。また略奪・強盗の被害に遭うのも常だった。そのような略奪の被害に遭わなかった場合でも、住んでいる人間そのものが拉致されて、他国まで連れていかれて、金と交換してやっと解放される、ということもよくあった。百姓は、そうした被害に遭うのを避けるために、自らの村の自衛策として、城を建設したのである。
戦国時代の合戦というのは、農閑期の百姓に仕事を与えるための、一種の公共事業の面があった。百姓は一年の半分は仕事がヒマになるから、その間を過ごすために合戦が行われた。戦国大名がよく、乱暴狼藉や略奪禁止の令を出したのは、合戦においては、そのような行為が日常的だったからである。なお、最近では江戸時代でも百姓は自らの事を百姓とは言わず、正確には「農人」という名称で呼んでいた、という研究者(たとえば網野善彦氏)もいるが、本稿ではこれまで通りに百姓という名称を使用した。たしかに、明治になってからの公文書にも、百姓のことを「農人」と記載した資料がある。江戸時代に限らず、百姓が自らのことを何と呼んでいたかは、実際にはよくわかっていない問題なのである。これは後にも触れるが、近世の加賀藩の賤民である「藤内」にしても、なぜにそのような名称で呼ばれるようになったのか、あるいは自らは何と呼んでいたのか、実際には何も解っていない。本稿ではひとつの仮説を提出しておいた。
だから、城というのは、天守閣を構えたり、本丸を備えたりしない場合もあった。安宅の関跡は、そうした城のひとつであったらしい。安宅の関跡には現在、安宅住吉神社が建てられている。この神社の境内から1970(昭和45)年5月、鎌倉時代ないしは室町時代の製作と推定される狛犬をはじめ、大日如来像、梵字墓、五輪塔などが出土した。これらの出土物は現在、安宅住吉神社に保存されている。神社周辺には、武士も居住していたらしい。こうした出土物からも伺われるように、安宅の関周辺はかなり古い時代から開けていたのは間違いない。『安宅由来記』という史料に、次のような記述がある。
「安宅は元、寇ケ浦と称し、異国来襲頻々たりし地と伝えられる。住吉神社は神威により寇賊を防御し、かつ航海安全を守護し給はむことを祈りて勧請せるものなり。陸路の要衝なりし事も広く諸書に見る処にして、延喜式の安宅駅を載せたる、八雲御抄に安宅の橋見え、源平盛衰記に安宅城ある等皆取って以て証とすべし。とりわけ最も有名にして児童走卒も能く知れるは安宅の関なり」
安宅の関周辺は、日本海に突き出た場所にあり、陸上交通の要衝地としての位置にあり、海上交通にとっても、陸上交通にも非常に重要な位置を占めていた。現在の安宅住吉神社周辺は、そのような軍事的にも重要な位置にあり、城の役割を果たしていた地域だったのである。またいつも外国から侵攻されてもいた、というのである。
江戸時代には、日本は鎖国をしていたから、外国へ行くことは原則的には禁止されていた。また外国からの使節は、みな長崎の出島に閉じ込められていた、と言われているが、実際には、この『安宅由来記』が記すように、頻々と朝鮮半島や中国やロシア大陸からの襲撃・来訪があったのである。江戸時代以前であつても、こちらからも「漁にでる」という名目の下に、朝鮮半島や中国やロシア大陸まででかけていって、「海賊」行為を働く者もずいぶんとあったらしい。何事も、ただ一片の法令が出たからと言って、それですべてが解決した、というわけではない。
この安宅の関の名前を全国に知らしめたのは、何といっても歌舞伎の「勧進帳」によってであろう。「勧進帳」は、1840(天保11)年に江戸の河原崎座で初演されて以来、人々に大受けし、今日では「歌舞伎十八番」として知られている。「勧進帳」は能の「安宅」に、当時の講談で大評判だった「山伏問答」を取り入れて、上演された。弁慶と富樫介のやり取りは、実に圧巻である。
「それつらつら惟(おも)んみれば 大恩教主の秋の月は 涅槃の雲に隠れ生死長夜の長き夢驚かすべき 人もなし ここに中頃 帝おはします おん名をば聖武皇帝と名付け奉り最愛の夫人に別れ 恋慕止み難く梯泣(ていきゅう)眼にあらく涙玉を貫く 思を善途に翻して 盧舎那仏を建立す かほどの霊場の絶えなんことを悲しみて俊乗坊重源諸国を勧進す 一紙半銭の奉財の輩はこの世にては無比の楽に誇り 当来にては数千蓮華の上に座せん 帰命稽(けい)首敬って白(もう)す」
歌舞伎の「勧進帳」は、この名セリフでよく知られている。この名セリフは弁慶の機転によって、白紙の巻物を読み上げたものである、といわれている。この弁慶が京都の五条大橋の上で、義経と出会ったとされているのは、歴史的には事実ではない。だが、よく絵本には見られる弁慶が背負っていたとされる「弁慶の七つ道具」といわれるカケヤや鎌、鉄棒などの道具は、当時の鉱山技術者が持っていたものである。要するに、弁慶が実在の人物とすれば、深い山に入り、銅や鉄、金などの鉱脈を見つける技術者の一人と推定される。弁慶だけでなく当時の山岳信仰の修験者は、たいていがそのような使命を負って各地を歩いていた、と考えられる。弘法大師が、全国各地で池を掘った話や、温泉を湧き出させたという話も、同様の系譜に属するものである。弘法大師は、持っていた鉄棒で岩を砕き、温泉を湧き出させたりしたのである。当時の社会で、全国各地を行脚するという、その行為の裏には、隠された別の意味があった、ということなのである。弘法大師といえども、人々の喜捨にしか頼れなかったという経済的な問題が大きかった、と考えられる。そのために池を掘ったりしたのだ。
隠された別の意味、ということでは、義経一行が変装した山伏姿も、何らかの意味があったはずである。江戸時代の川柳に、「山伏に度々化ける源氏方」というものがある。これは義経一行の山伏姿を唄っただけではなくて、大江山の鬼退治で知られる、源頼光の故事とか、平家方に敗れた源義朝が逃亡する時に、やはり山伏に化けて逃げた故事を詠んだものである。源頼光一行も、やはり山伏に変装して大江山へ向かった。
江戸時代の民衆は、こうした川柳の意味がわかったのであるから、言われているようにそれほど無知な存在ではなかった、と言えよう。
3、城下町絵図と城絵図
この安宅の関を東へ行くと、現在は城跡だけとなっているが、近世には一国一城令の唯一の例外として幕府からも認められた、小松城があった。この「近世絵図地図資料集成・第9巻」には、この小松城の城絵図と城下町絵図を収録していないが、「近世絵図地図資料集成・第10巻」に数点収録する予定である。時代が明治に近くなるに従って、城下町が次第に整備され、大きくなっていった様子が知られる。城も、仮の物という訳ではなくて、本格的な構えだった様子がよくわかる絵図である。城下町には、各地の城下町と同様に大工町、鍛治町、鷹匠町などが書き込まれている。やや地域性を感じさせるのは、塗師町であろうか。城の近くには畠もあつたが、これはこれで意味があつたと考えられる。 この「近世絵図地図資料集成・第9巻」においては、天正9(1581)年の前田利家の能登国支配以前から幕末に至るまでの加賀国・能登国・越中国の各国、加賀国の四郡(河北郡・能美郡・石川郡・江沼郡)及び大聖寺領、金沢城下町の、地形・領地・交通網・都市・農村の変遷の過程を、歴史的に理解できることを主眼として編纂した。これらの絵図地図を編年体の方式で配列し、再構成したので留意されたい。ことに、金沢の城下町の変遷を見るにあたっては、時代が進むにつれて、城外の農村地帯に居住・生産地域が拡大していくのが、容易に読みとることができた。生産・消費人口の拡大と生産力の発展が、都市や農村の肥大化に大きな影響を与えることは、現代においても同様である。
このような金沢城下町図の変遷を記すにあたっては、その基本となる思考方法を、金沢市立玉川図書館近世史料館の宇佐美館長から、多大なご教示を得たことを、ここにお断りしておきたい。宇佐美館長に、深く感謝する次第である。以下、具体的に都市・農村・城下町の変遷について、解説を試みることにする。なお、詳細な内容に関しては、「解説篇」も参照されたい。
城絵図と城下町絵図を見ていると、小松城の構えには、防衛にかなりの重点がおかれているよことが見てとれる。とにかく、やたらに、濠が深くて幅広いのである。「白鳥堀」は「堀中85間」もあった。1間を6尺で計算しているのか、あるいは6尺2寸で計算しているのか、絵図からだけでは、理解できないが、いずれにしても、かなり幅広い濠である。本丸と二の丸を囲む濠も、白鳥堀に負けず劣らずに、深くて幅広く描かれている。本丸は「東西51間・南北58間」もあった。本丸には二重の天守見切櫓があった。
二の丸から本丸への通路には、鉄の門があった。此の他、城の中には14棟の士屋敷、14ケ処の井戸、武器として槍4,724本、具足7,950領、弓1,500張り、鉄砲4,500丁などが備えられていた(『小松城郭廻等書出之帳』)。小松城は、もともとが芦原を開拓した平城である。しかし加賀藩の三代目藩主であった前田利常が隠居所として、城の改築を進め、梯川の流れを利用して濠を築いた。城の廻りを巡っている梯川の水門を閉じれば、城は水に浮かぶ浮き城になる。加えて、上に見たような大量の武器の保存があったのである。これは隠居所というよりも、要塞と言った方が正確である。「天保15年」の城下町絵図は、この意味を解読するのに、大変に貴重なものである。梯川の末流は、安宅湊から日本海に注いでいた。
ところで、城下町であるから、当然のように遊廓もできる。小松城の遊廓は城下町絵図には書き込みがないが、北陸街道の端の串茶屋にあった。江戸時代後期の文化(1804~1818年)年間に、全盛期を迎えたといわれる。しかし、1823(文政6)年には大火があって焼け、天保の改革の影響も重なり、幕末にはかなり衰微した。明治に入り、日露戦争が開始される頃には、すっかりさびれてしまった。この串茶屋町には現在、幕末にいた33人の遊女の墓が残されている。次に金沢城について詳しくみてみよう。
金沢では、毎年6月14日の前後3日間にわたって、「百万石祭り」が行われる。例年かなりの人出で賑わう。この祭りは、現在の金沢の基礎を築いたと言われている加賀藩初代藩主である前田利家が、金沢に入城したのを記念して行われる。前田利家は、1583(天正11)年、金沢城に入った。当時は金沢城ないしは尾山城と呼ばれていた。金沢城と名称が統一されたのは、加賀藩三代目藩主・前田利常の時代からである。尾山城というのは、現在の金沢城本丸跡に、加賀一向一揆の拠点である本願寺があったからである。尾山御坊は、浄土真宗の第8世・蓮如上人が1471(文明3)年に、一向一揆の拠点として本願寺を築き、それが尾山城と呼ばれていた。一向一揆の連合軍は、加賀国の守護であった富樫氏を1488年に滅ぼし、以後、97年間にわたって「百姓の持ちたる国」を実現したのである。 前田利家が入城した頃の金沢城は、単に石垣と土塁を積み、壕を掘っただけの平山城であつたらしい。それを現在見られるような城の形式に築城したのは、キリシタン大名として有名な、高山右近である。高山右近は、1587(天正15)年に、豊臣秀吉のキリシタン弾圧により、播磨国・明石城の城主を解任され、前田利家の預かりの身となった。その高山右近は、築城技術に関しては、大変に博識だった。前田利家は、そうした技術を発揮させるために、高山右近に城の修築を命じた。 城跡に残る石垣から推定すると、現在の金沢城は1592(文禄元)年と1599(慶長4)年に、大工事が行われたらしい。1599(慶長4)年の大工事は、前田利家の死に伴って、徳川家と加賀藩が極度の緊張関係に陥った時に行われた、といわれる。その証拠のひとつが、現在に残る金沢城・石川門である。石川門は、柱も扉も、厚い鉄板を太い鋲で留めた頑丈な造りになっている。高麗門造りといわれ、かなりの攻撃にも耐えられる構造になっている。屋根は鉛で葺かれている。これは、言うまでもなく、有事の際には、鋳潰して鉄砲の弾にするためである。現在は重要文化財になっている。石川門は1759(宝暦9)年4月の大火で焼け、更に、1799(寛政11)年の大地震で大破し、再建されている。創建当時の面影を伝えている建造物である。 金沢の城下町建設は、およそ三期に分けて行われた。最初は、慶長年間(1596~1614年)で、この時は、現在の金沢市内で最大の繁華街になっている片町周辺が、犀川の河原を埋め立てる方式で、町造りが行われた。戦国期の犀川の河原は、かなり広かった様子が知られる。戦国期には、まだこちらの方面が、重要な防衛地点だったのであろう。
次は、1616(元和2)年に行われた寺町の建設である。それまで、城下の各地に散在していた寺を、寺町と卯辰山の麓に集めている。現在でもこの地域には、江戸時代に建築された寺がいくつも残つている。この寺の配置を見ると、加賀藩が誰を怖れて町づくりをしたのかが、窺い知れるのである。おそらく、仮想敵は幕府であつたであろう。寺の配置を見ると、その事がよく理解できる。北側の北国街道に沿って、寺が重点的に配置されている。寺は、有事の際には、立て籠り用の館になったり、武器庫でもあつたから、重要地点に配置される必要があったのである。それに城下町の入口に寺社を配置するという政策は、「ここから先に入ると神仏の罰が当たるぞ」という意味も込められている。全国に残る城下町が、ほぼ同じような寺社の配置をしたのは、このような意味があったのである。 加賀藩の参勤交代においては、その9割が北国街道を利用している。南廻りのコ-スをとったのは、10に満たない。北国街道を利用する、というということは、城下を北へ出る方面が重要な防衛地点だった、ということでもある。江戸時代初期とは、明らかに社会情勢が変わっていた。そのために、浅野川沿いには、大きな「藤内」の集団が配置されたのである。
次に、金沢城下の町割りが行われたのは、1635(寛永12)年以後のことである。この年、金沢城下は一万戸以上が焼失するという大火があった。この大火をきっかけに、武家屋敷町、町人町、百姓地が定められ、上級武士ほど、城の近くに住んだ。この頃は、上級武士以外は、二階建ての住宅を建てることが禁止され、町人町では、間口が狭く、奥行きが長い、木造平屋建ての切り妻作りの住宅がほとんどであった。町人の家は二階建ては禁止されたが、江戸時代中期以後には、違法を承知で、二階建ての住宅を建てる人も現れた金沢の城下町建設は、このような大火の後に、次第に整備されていった。
この金沢城の大きな特徴は、城の周囲が広大な濠で囲まれていないから、濠に対応する町造りをしなければならなかった点にある。このような城は全国でも珍しい。卯辰山を背景に、上級家臣団を城の近くに置き、外側へ行くほど、下級武士、農民が配置される。これは城を取り囲む濠がなかったので、その代わりを、家臣団や町人、農民を弾除けとして使った配置であったと言ってよい。町人の家が、間口が狭く奥行きが深い、という構造だったのは、イザという時のために鉄砲が隠されていたからだともいわれる。そうした町人屋敷があちこちに配置されていたのが、金沢の城下であった。
近世の加賀藩は、非常に複雑な賤民制度を作りあげた。加賀藩における近世賤民は、「藤内」に代表される特異な名称であることから、部落史研究者の間でも、かなり以前から注目を集めてきた。「藤内」の語源や意味については、加賀藩の多くの史料にも「不詳」とか「詳かならず」とか、記されている。「藤内」には「頭」という代表者がいたが、その頭でさえも、「先祖より藤内与申名之子細は不奉存由申候」(『国事雑抄』上編)というのである。東日本で広く使用されている「長吏」という名称も、その意味や語源については何ひとつ明らかになっていないが、部落問題には不明な点が大変に多い。こうした不明な点が多いことにつけこんで、部落問題では「トンデモ本」の類が出版される傾向がある。 この「藤内」という名称は、現在の石川県と富山県域だけで聞かれる言葉である。ただし石川県でも、近世の大聖寺藩であつた加賀市では、「藤内」という名称は使用されていなかった。それに富山県でも現在の新潟県糸魚川市に近い地域でも、「藤内」という名称は使用されていなかった。そうした点を考え合わせると、「藤内」という名称は、加賀藩と密接に関係している言葉である、と判断して差し支えあるまい。
現在の石川県や富山県では、若い世代では、この「藤内」という言葉そのものを「聞いたことがない」とか、「全然知らない」ようになっている。これは全国的な傾向であるが、地域に残っている部落問題(関連)用語を、「使うことそのものが差別である」と言われ続けてきたから、心を許せる関係者の間では、一種の暗号のように使用して、公的には使用しなくなったからである。そのために若い世代は「藤内」という言葉そのものを知らなくなってきているのである。
ただし、この事が即、「問題が解決した」という理由にはならない。現在でも、石川県とか富山県の興信所で、身元調査の依頼の実に90%が「相手が藤内かどうか調べてくれ」という内容の依頼だと言うのである。富山県や石川県では「藤内」という言葉は暗号のように使用されている。そのように使用せざるをえないのは、言う方も聞く方も「藤内」という言葉が差別語である、という理由をよく知っているからである。現在、「藤内」という言葉の説明としては、両方の手の指を合計しても10本に足らない、つまり片方の手の指が一本づつ欠けるから「とうない」なのだという、偏見としか言いようのない俗説がまかり通っている。これは、全国各地にみられた、「部落といわれている地域は江戸時代に士農工商のラチ外に置かれた」という俗説の亜流である。士農工商を片手の指で示せば指が一本余る。あるいは「明治になって、四民平等の世の中になっても、そこに入れてもらえなかった<新平民>だから、それを指で数えると片手では一本余る」という俗説と軌を一にする考え方である。はっきりしているのは、「藤内」という言葉は藤内差別のために使用されている言葉である、という点は間違いない。
この「藤内」という言葉の持つ意味や由来については、更に綿密な調査が必要と考えられる。ただしその際に、現在差別語として使用されているからといって、この言葉を使用したからと、無闇矢鱈と糾弾してしまわないことである。糾弾をすれば、人は黙り込むしかないからである。
近世の加賀藩が残した藩政史料は、『加賀藩史料』として刊行されている。その史料集は膨大な量になる。その史料集の中には、やはりかなりの量の「藤内」関係史料が収録されている。『加賀藩史料』をタネ本とした『石川県史』や『稿本金沢市史』も刊行されている。『異部落一巻』という史料集は、近世加賀藩の賤民関係の基礎史料である。『異部落一巻』はかなり貴重な史料集である。
それらの史料を見ると、加賀藩には「藤内」「皮多」「物吉」「かったい」「舞々」「非人」といった被差別者がいた。それらの被差別者はそれぞれ居住地も役割も違っていた。被差別者内部においても厳重な差別が存在した。被差別者総体の支配は、身分的には非人に属する「藤内」が行った。「藤内」は、金沢の場合は城下町はずれの犀川沿いに居住していた。そこには仁蔵・三右衛門という「藤内頭」がいた。浅野川沿いには「皮多」(史料には「穢多」とある)が居住し、孫右衛門という「頭」が存在した。両者は「同類」ではなく、「筋違」であつて、近世には縁組もしなかったという(『国事雑抄』上編)。「皮多」は、時代が明治に近くなるにつれて、この他にも、「頭」が増え続け、甚太郎・九兵衛なども、「頭」だった。つまり、近世を通じて「皮多」人口は増え続けた、ということなのである。『国事雑抄』上編が製作されたのは1693(元禄6)年で、当時は「皮多頭」は孫右衛門一人であったが、最終的には7人の「頭」がいたらしい。 明治になってからも、浅野川沿いのかつての「皮多」の人達は、皮革業に携わっていた。日露戦争当時には、金沢市内の重要工産物の上位10位の中に「製靴業」が入っていた。1908(明治41)年には「249,000円」(『金沢市統計書』)の生産額であった。しかし、製靴業が市内の上位10位に入ったのは、この時だけであった。全国的に、日露戦争当時には、製靴業の隆盛をみたが、金沢市も例外ではなかった。戦前の金沢では、安定していた産業は絹織物であった。それと金箔の生産である。
「藤内頭」の仁蔵の屋敷は、家族めいめいが三畳、六畳、八畳の三部屋を持っていた、という。庭には泉水・築山もあり、大木もたくさん茂っていたと史料にはある。しかし、1874(明治7)年7月の大洪水の時に、近くを流れる犀川が大氾濫を起こして、一瞬のうちに仁蔵の家は流されてしまった。配下の「藤内」の家も、みな流されてしまった。これらの人達がその後、どこへいったのかよく解っていない。確実に言えることは、近世の犀川沿いにあった「藤内」の集団居住地は、この時に消滅した、という事実である。一部の人達は、浅野川沿いの「皮多」村へ移って行った。
4、おわりに
この「近世絵図地図資料集成・第9巻」は、若狭国・越前国・加賀国・能登国・越中国の絵図及び地図、加賀国の郡絵図、金沢を中心とした城下町絵図を収録した。収録にあたっては、古代から近世末期まで、領土・交通網・河川・都市・農村などの変遷が、歴史的に理解できるような構成とした。この論攷においては、概説に主眼をおいて執筆したので、詳細な内容に関しては、「解説篇」を繙くことをお勧めする。
なお、「近世絵図地図資料集成・第10巻」(2006年刊行予定)においては、主として、能登国の郡図・村絵図を、「近世絵図地図資料集成・第11巻」(2007年刊行予定)においては、主に、越中国の郡図・村絵図を、それぞれ掲載の予定である。