近世絵図地図資料集成 第8巻(丹後・丹波・山城・京都)
商品コード: ISBN4-7603-0134-8 C3325 \250000E

近世絵図地図資料集成 第8巻(丹後・丹波・山城・京都)

販売価格:
250,000円    (税込:275,000円)
[第8巻]丹後・丹波・山城・京都
(2004/平成16年6月刊行)
[第9回配本]

〈第1期・全12巻・全巻完結〉
The Collected Maps and Pictures Produced in Yedo Era-----First Series
近世繪圖地圖資料研究会 編
A2版及びA1版・袋入・全12巻・限定100部・分売可
各巻本体価格 250,000円
揃本体価格 3,000,000円

京都の古地図を読む


1、はじめに
 近世絵図地図資料集成の京都編をお届けする。京都は、794年の平安遷都以来、ずっと政治・経済・文化・産業・工芸などの分野では、わが国の中心であつたから、近世の絵図・地図にしても、何種類もが制作されており、膨大な資料として残つている。元治元(1864)年に起きた二条下るあたりから出火した火事の時には、「手紙いらず早便り」として焼失範囲を地図で表示、友人・知人、特に諸国の商工業者に罹災状況を飛脚で知らせている。地図には避難先も記されているから、注文先が行方不明にならないように配慮していたわけである。この時の火災では58,300余世帯が焼け出された。
 このように、京都は幕末にあつても全国各地の商工業者と密接な関係を持っていたのである。明治初期の工業生産高を見ると、京都は他の都市を引き離して、断然トップなのである。「西陣織は天明の大火以後、凋落の一途をたどった」と言われるが、それはあたっていないのではないか。品質の向上・高級品への特化という道を採れば、西陣というブランド名で生き残れた、と考えられるからである。  天明の大火は、天明8(1788)年1月30日に鴨川の東側から出火し、折からの強風に煽られて、ついには京都の町のほとんどを焼く火災となった。御所や二条城ほか、37の神社、200ケ寺、町家37,000軒、罹災世帯65,000余戸という大火であった。このとき焼け残った物のひとつに、西本願寺の御影堂前に今もある銀杏の木がある。
京都というと、古い時代の寺社や町家の建物がそのまま残つている、と思われがちであるが、実は現在残っているのは、元治の大火以後の建物なのである。少なくとも市街地の建物はほとんどが明治以降に建てられている。寺社もふくめて、創建当時からの建物というのは、極めて少ないのである。
 だが、現代の京都は人々を魅き付ける。新幹線に乗ると、必ずひとつの車両に何人かの京都行きの観光客、と覚しき人がいるものである。京都が人を魅き付けるのは、歴史の悠久性なのではないか。古い寺社や町家のたたずまいが、人を京都へと誘うのであろう、と考える。有名な寺社なら、本絵図地図にも現在とほとんど変わらない位置に記載がある。 梅棹忠夫さんは、「たしかに京都には、ある種の洗練されたものはある。しかし、冷静な目でこの都市をみれば、そこにあるのは老朽化した、みすぼらしい建造物の集合でしかない」(『アサヒグラフ』1994新年合併号)とかなり辛辣な評価をしている。
しかし、その「老朽化した、みすぼらしい建造物の集合」が、なくてはならない産業もあった。勃興期の日本映画である。

2、京都と日本映画
 かつて「チャンバラ」映画があった。現在では時代劇と呼ばれているが、チャンバラ映画は京都と切り離しては語れない。それは、古い寺社や町並み、伝統的な祭りや芸能、茶の湯とかの伝統文化、美術や工芸などの伝統産業が息づいていたからであった。
映画は、1895(明治28)年12月、パリのグラン・カフェで「シネマトグラフ」が有料で一般公開されたのが、世界最初といわれている。この年、京都では平安遷都1100年記念事業を開催、第4回内国勧業博覧会も開かれ、入場者数は130万人を数えたという。京都市電も開通し、全国の市電の先駆けともなった。明治維新以後、東京遷都で地盤沈下していた京都が、京都ここにあり、と宣言した年となった。
パリで発明されたシネマトグラフは、当時の紡績会社の実力者である稲畑勝太郎によって1897(明治30)年、初めて日本へともたらされた。稲畑は、輸入したシネマトグラフを京都電燈会社や島津製作所の協力によって、試写実験を行ったが、なかなか成功しなかったらしい。その試写の実験をしたのは、現在の河原町蛸薬師東入るの北側、関西電力の変電所付近、と言われている。  
 苦労して実験に成功した稲畑等は1897年2月15日、大阪の南地演舞場で「自動幻画」の名称で、有料上映会を開いた。日本映画史の幕開けである。シネマトグラフは、瞬く間に全国的に広がっていった。当初は、海外の新作フィルムを輸入して、それを映写技師・弁士・楽隊などの巡業隊が各地で興業を行っていたからである。だが、1901(明治34)年に「横田兄弟商会」が設立されると、日露戦争の記録映画や自前の活動写真の制作にも乗り出していくのであった。横田は、稲畑からシネマトグラフの興行権、機械、フィルムの一切を譲り受けた。
そして、1907(明治40)年に横田は「千本座」の座主である牧野省三に出会い、自前の活動写真の制作を委託するが、こうして出来上がったのが「本能寺合戦」である。ここに京都における映画の制作と、監督を中心とした映画制作の基本スタイルが確立するのである。千本座の役者達は、昼間は映画の出演に駆り出され、夜には千本座そのものが試写室に早変わりした。
牧野省三は「日本映画の父」と言われている。牧野は1909(明治42)年、尾上松之助を主役とした「碁盤忠信源氏礎」というタイトルの映画を制作し、これによって全国的に「目玉の松ちゃん」ブ-ムが沸き起つた。この映画以降、尾上松之助は忍者物、歌舞伎、講談、浪曲などの主役を次々と演じ、超有名人となつていくのである。尾上松之助は、生涯に1,000本以上の映画に出演した、と言われている。
こうした映画人気が背景となって、1912(大正1)年に「大日本活動写真株式会社」が発足する。よく知られている日活である。この頃の映画はまだ、歌舞伎に題材をとっただけのものであったが、次第に歌舞伎に依存しない独自の道を模索していくようにもなった。日活が発足したころから、東京で制作される映画は現代劇、京都で制作される映画は時代劇、という色分けも次第にはっきりとしてきた。
 京都で、時代劇が制作されたのは、先にも触れた通り、古い寺社や町並み、伝統的な祭りや芸能、数々の職種と職人が生き残っていたからである。撮影に、大道具も小道具もいらなかつた。ただそうした寺社や街角でロケーションが出来たのである。京都は「日本のハリウッド」と呼ばれるようになっていく。映画制作の資金は西陣の旦那が出していた。「目玉の松ちゃん」の後、チャンバラ映画のスタ-となつたのは、阪東妻三郎(ばんつま、として知られている)であり、市川右太衛門であり、月形龍之介であり、片岡千恵蔵であった。そして鞍馬天狗シリ-ズの嵐寛寿郎(アラカン)であった。
京都には、よく知られている祇園や先斗町だけでなく、宮川町、上七軒などの花街がある。本絵図地図資料集成には、祇園や島原遊廓(掲載図には「けいせい町、傾城町」とある)はいくつかの図に出てくるので、説明の必要もないと考える。傾城町は西本願寺の西側に描かれている。江戸の吉原遊廓のように、町並みは碁盤の目のような町割りになっていた。  
 祇園の花街は、四条河原と祇園社の間に開けた、という地理関係にある。近世には祇園社と呼ばれていた八坂神社は、祇園祭の行われる神社としてよく知られている。祇園が島原遊廓をしのぐほどの賑いになったのは、近世を通じて祇園祭が年々歳々華やかになっていき、各地から参拝客を多数集める様になったからである。  この祇園に生きる女性をめぐる男女の愛憎や人間模様、女性同士の人間関係などを扱った映画も、戦前以来何本もつくられている。京都ならでは、の映画といえようか。 それらの主な作品をいくつかを挙げてみると、戦前の制作映画では「祇園祭」(1933年・溝口健二監督、主演は鈴木澄子)、「折鶴お千」(1933年・溝口健二監督、主演は山田五十鈴)、「祇園の姉妹」(1936年・溝口健二監督、主演は山田五十鈴)、「浪花女」(1940年・溝口健二監督、主演は田中絹代)、「祇園小唄絵日傘」(1930年・金森万象監督、主演は桜木梅子)、「花ちりぬ」(1938年・石田民三監督、主演は花井蘭子)などがある。1933年制作の「滝の白糸」(溝口健二監督・入江たか子)も秀作である。 戦後では、「偽れる盛装」(1951年・吉村公三郎監督、主演は京マチ子)、「噂の女」(1954年・溝口健二監督、主演は久我美子と田中絹代)、「太夫さんより・女体は哀しく」(1957年・稲垣浩監督、主演は扇千景と乙羽信子)、「舞妓物語」(1954年・安田公義監督、主演は若尾文子)、「五番町夕霧楼」(1963年・田坂具隆監督、主演は佐久間良子)。「五番町夕霧楼」は1980年に松坂慶子主演でも封切られている。
 これらの映画のうち、「噂の女」は溝口監督の秀作映画といわれている。溝口監督はこれらの他に、世界的にも知られている「山椒太夫」(1954年、主演は田中絹代他/大映京都)、「近松物語」(1954年、主演は長谷川一夫、香川京子、南田洋子/大映京都)、「雨月物語」(1953年、主演は京マチ子と森雅之)、「西鶴一代女」(1952年、主演は田中絹代)、「祇園囃子」(1953年、主演は若尾文子)などの作品がある。 このような映画は、京都という都市が、花街を始め、伝統的な生活習慣が強固に生きている街だからこそ、制作が可能だったのである。「山椒太夫」はかなり長い間、部落史研究者の間でも高く評価されてきた映画、という経緯がある。それは中世の部落が、「散所」から発生しているのではないか。その散所の長者が山椒太夫なのではないか、といわれていたからである。しかし、最近の研究成果では、当時の社会でも、散所は必ずしも差別されていなかった、ことが明らかになり、散所が被差別部落になっていったひとつの典型例ではないか、という考え方は否定されている。      
 散所説が説かれるところなどは、政治・経済・文化の先進地であった京都ならでは、と考える。散所そのものがほとんど見当たらない東日本ではこうした部落形成説の考え方、そのものが出てくることはない。部落史研究の不幸は、こうした一事例を、全国に普遍的に通用するものである、と押し付けたことにある。しかし、一度インプットされた考え方は、なかなか修正がきかないのも事実なのである。  日本映画と京都の関係では、忘れてならないのは「羅生門」であろう。黒沢明監督のこの映画は、第12回ヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞した作品である。このグランプリ受賞は、当時、ノ-ベル賞を受賞した湯川秀樹に勝るとも劣らないほどの大事件であった、といわれた。  
 日本映画は戦後しばらくの間、チャンバラ映画は「反民主主義的」としてGHQから制作が禁止されていた。それは、チャンバラ映画が封建制を擁護し、民主化の推進にとって有害、と思われていたからである。実際には、時代劇は封建制の理不尽さを告発する内容のものが多かった。
 そうした時代の壁を越えたのが「羅生門」である。あの半分崩れかけた羅生門の、雨のふりしきるシ-ンを記憶されている人達も多いのではないか。「羅生門」は、芥川龍之介の小説を映画化したものである。1950(昭和25)年、黒沢明監督が制作し、大映京都が配給した。主な出演者は三船敏郎、京マチ子、森雅之、志村喬、加東大介らである。
 映画のロケーションは、奈良の原生林、京都の光明寺の山林、木津川の川端、淀と、四か所で行なわれた。羅生門の建物は大映のスタジオに建てられた。羅生門にふりしきる雨には墨汁が使われたという。白黒映画だったこの映画は、白と黒のコントラストが非常に良く表現されていた。 ところで、本絵図地図資料集成には羅生門の記載がない。羅生門は、正確には「羅城門」といい、平安京の中心を南北に走る朱雀大路の南端にそびえ建っていた。高さはおよそ13メ-トルあった。二層建てであつたらしい。しかし、天元3(980)年に倒壊してからは再建されなかったようだ。羅城門は、それまでにも倒壊したことがあったらしい。現在、羅城門跡を示す石碑は、京都市南区唐橋羅城門町の九条通りから少し北に入った児童公園の中にある。実際の羅城門はこの石碑よりもやや南に建っていたらしい。
 この羅城門の東に東寺、西側に西寺が建てられた。東寺は現在でも存在し、新幹線の車内からも、有名な五重塔とともに、見ることができる。西寺は平安京が開かれるとすぐの延暦15(796)年、東寺とともに創建されている。弘仁14(823)年、東寺が空海に、西寺は守敏に授けられたが正暦元(990)年に焼失している。  
 要するに、東寺は次第に栄えたが、羅城門や西寺は荒れるに任されていた、というわけである。平安京の都は、朱雀大路より西側一帯はかなり早くから衰微していたらしい。 朱雀大路は現在のJR山陰線に沿って走っていた。山陰線は西ノ京で桂川方面へ大きくカ-ブする。その曲がり始めた所付近が初期の平安京の大内裏であり、大極殿である。現在の御所は平安京創建当時からみると、かなり東に寄っている。船岡山が当時の大内裏のちょうど真北にあたっている。船岡山の東には玄武神社がある。 かつて、陰陽師の安倍晴明が人気を集めた。不透明な時代を少しでも見通そうとしたのか、時代に一陣の風を吹き込んだ陰陽師や安倍晴明の存在は、若者を中心に今もかなりの人気がある。その晴明の屋敷があったのは、創建当時の平安京の大内裏のちょうど東北の鬼門にあたる所である。本絵図地図資料集成には、いくつかの図に「晴明丁」が書き込まれてある。大絵図には「晴明」とあり、ここが晴明神社である。通りをはさんだ向かいには「油路」との記載がある。この晴明神社の東側を流れているのが堀川で、ここに有名な一条戻り橋が架けられている。

3、日本歴史の中央と地方 晴明神社は、現在の住居表示では京都市上京区堀川通一条上ルである。いつ行ってみても、社務所のなかにはたいてい人生相談らしき人の顔がある。人間は悩みの多い生き物なのだ。神社の境内はそれほど広くはないが、安倍晴明は921年に生まれ、1005まで生きたといわれているから、歴史のある神域であると言って良い。  晴明は、陰陽道を家職として代々朝廷に仕えた。後には全国各地の陰陽師を統括する土御門家となった。晴明神社の神紋はよく知られている様に、桔梗印といわれる☆形の印である。これは「晴明公の創められた独特のもので、陰陽道に用ひられる祈祷呪符のひとつである。天地五行を象どり、宇宙万物の除災清浄をあらわす。ギリシャ語でペンタグランマと称し、西洋諸国にても魔除の印しとしている。旧日本陸軍を初め各国軍隊が、星の紋章を使用し、又、幔幕の縄通し、衣服の一端に縫い込まれるのも皆厄除開運を願ふ故なり」(晴明神社発行の暦による)という。
 東北の方向をなぜ鬼門というかというと、中国の古い文献である『天海経』のなかに、説明されている。それによると、東北の方向には度朔山という山があって、その山にはたくさんの鬼が住んでいて、人の家の門から入つて来ては悪さをした、という。この説話が根拠となって、東北の方向を鬼が出入りする「鬼門」というようになったのである。
 京都の場合には、比叡山が平安京の鬼門の方向にあるというところから、延暦寺が創建されたと伝えられている。慈鎮和尚は「我山は花の都の丑寅に鬼いる門を塞ぐとぞ聞く」(同前)と歌ってこうした説を裏付けた。 比叡山は平安京の鬼門除けとして、晴明の屋敷は大内裏の鬼門除けとして位置づけられていたのである。朝廷における晴明は並々ならぬ地位にあったのである。 本絵図地図資料集成には直接の関係はないが、伊能忠敬作成の地図には伊勢神宮の近くに、「陰陽村」という記載がある図が含まれている。これは近世の伊勢神宮発行の暦を全国に広めて歩いていた人達の集団なのか、あるいは、中世以来の陰陽師の流れを引き継いだ人達の集団なのか、即断はできないが、「陰陽村」という記載がある点には注意が必要である。少なくとも、近世末期に至っても、周辺社会からそういう名称(俗称)で呼ばれていた集団が存在したのである。同様の名称は、やはり伊能図であるが、富士山の北側の付近に一か所書き込まれた図がある。南朝を支持していた人達の末裔なのであろうか。
 大和国(現在の奈良県一帯の地域)では、現在、周辺社会から被差別部落といわれている地域のなかや隣接地域から、☆印の入った敷石様の形式の石が見つかることがある。陰陽師が被差別者になっていったひとつの例と考えられ、陰陽師が社会的にどのように扱われていたのかを示す好例といえよう。  東日本でも、あちこちに安倍晴明にまつわる伝承を持つ神社が存在している。それらの多くが熊野神社を社名としている、という共通点もある。神社の神域がちょうど五角形をしていて、ちょうど☆形になっている神社もある。これらの神社がすべて晴明に関係があるかどうかは不明だが、熊野権現の修験者が、熊野の護符を持って全国各地を歩いていたという証拠にはなる。熊野神社は熊野修験の地域における拠点である。その熊野神社を渡り歩いていた修験者が、同時に晴明の大成した占いや呪法を持ち伝えていた可能性は充分にある。それに、熊野神社の存在する地域は、中世以来の在地の豪族がいたという記録がある地域が多い。近世の新田村には熊野神社は大変に少ない。
 安倍晴明の伝承を持つ神社が東日本の各地にある、という事実は、京の都の洗練された文化や技術を、都以外の各地の人達が、(喜んでかどうかはわからないにしても)受け入れていた証拠にはなる。拒否していたら、各地に晴明伝承などは残らなかったであろう。現在でも、各地に残る名所・旧跡の類は、中央の社会で活躍した人達に関した文物がほとんどである。地域で活躍していた人達の文物は、名所・旧跡扱いもされていない例も、実に多く見受けられる。地域で活躍していた人達も、都で何を学んだか、都で何をしていたか、が評価の基準になっている。都を中央文化と言い換えても良いが、地域文化の発展・興隆に尽くした人であっても、中央との関係が絶えず問題とされるのである。ここに日本における文化や歴史意識を考える意味がある。
 この点は実は、「天皇制はなぜ廃止されなかったのか」という問題とも深く関わっている。結論から先に言えば、日本の社会においては、武力で社会を統一するという問題よりも、文化による支配の問題の方が、比重が大きかったのではないか、と考えられるのである。歴史的にも、古代から、天皇は政治的実権はほとんどなかったが、文化の支配者としては強大な実権を持っていた、と考えられるのである。   武力による制圧は、より強力な武力を呼び起こすきっかけにもなるものだ。しかし、文化による支配は、その軛から抜け出るのはなかなか難しいのである。  今日の問題で少し考えてみる。新聞やテレビの国際ニュ-スのペ-ジを開くと、最近は自社の特派員が記事を書いたりして伝えているが、その内実はロイタ-・AFP・UPI・APの四大通信社の記事を翻訳して伝えているだけ、とも言われている。1970年代の後半の時期には、この四大通信社の配給する国際ニュ-スが90%以上を占めていたという(『情報の地政学』1982)。これらの通信社はロイタ-がイギリス、UPI・APはアメリカに本拠をおいている。世界のニュ-スは事実上、たった三ケ国に支配されているといっても良いのである。最近では、イラク戦争におけるアルジャジーラの存在が注目を集めているが、注目をあつめるという事そのものが、かえっておかしいのである。
 1974年の数字であるが、テレビで放映された全番組のうち、南米のチリでは50%以上、コロンビアでは34%、ウルグアイでは62%、グアテマラでは84%がアメリカ製であった。我々も子供の頃、アメリカ製のテレビ番組を毎日見せられていたものである。そうした結果、1998年の調査では、日本人の人気度でアメリカは第一位である。 また、アメリカから輸入されたフィーチャーフィルム(長編特別制作映画)は、1969年にはチリで上映された映画のうち50%、コロンビアで50%、ウルグアイでは58%、ボリビア、ブラジル、エクアドル、パラグアイ、ペルー、ベネズエラでは70%を占めた。タイでは同年、上映された映画のうち90%がアメリカ製であった(同前)。旧ソ連も映画の輸出大国であったが、第三世界の人々や世界各地の人達に、受け入れられたようには見えないのである。  
 旧ソ連はまた、各国向け国際放送送信国としても、最大の国であったが、アフリカで行った調査では、ソ連のラジオ放送聴取者は、いつも全聴取者の1~2%程度であったというのである。これに対しBBCは、放送時間がかなり短いのにもかかわらず、ラジオ全聴取者の50%以上を占めていた(同前)。つまり、共産圏の国で制作される放送は、魅力がないのである。こうした事実が積み重なってベ、ルリンの壁が崩れ、共産圏諸国のドミノ倒しが完成したのは、記憶に新しいところである。
  こうした文化輸出は、結果として文化の受け入れ側がアメリカの製品や生活様式、生活習慣や物の見方・考え方に、支配されてしまうのではないか、と考えられるのである。その結果が支配と従属の完成である。京都の場合、「応仁の乱(1467年から1477年)以前のことはわからない」とよく言われる。この時の大乱で京都の町は廃墟となった。だが、戦乱をさけた貴族や文化人が大量に地方へと逃れたので、京都の文化が地方へともたらされる一大契機となった。応仁の乱の頃の京都には、上は上皇・法皇から、天皇・皇族・武家・僧侶・神官・商工業者・百姓・賤民といった人々が存在した。これらの人達は、どれかひとつが抜けても社会関係が崩れてしまう、という有機的な関係にあった。
江戸幕府が開設されても、初期の江戸は文化の生産地ではなく、一大消費地だったのである。江戸にやってきていた御用商人が、様々なものを京都に発注していた。武家の頭領がはじめて幕府を構えた鎌倉は、都市の範囲が極めて狭く、商工業者は自立できる機会が少なかったと考えられる。歌舞伎も近世初期は上方が中心であった。 京都は今では石を投げれば寺にあたるほどであるが、羅城門が建てられた当時の、古代以来の寺は、東寺と西寺しかなかった。このうち西寺はすぐに衰微したから、事実上は東寺ひとつであった。現在みられる諸寺は、後から出来るのである。平安京の都が出来た時に作られたのは、政治や文化や思想も含めた全国的な支配関係であった。

4、京都地図の考察
 『七十一番職人歌合』には、こうかき(紺掻き)、はたおり(機織り)、ぬい物し(縫い物師)、すりし(摺り師)、さかつくり(酒作り)といった、生産現場で働く女性も描かれている。その他、米・魚・豆・麹・そうめん・とうふ・燈心・白布・綿・畳紙などを売っていた商人としての女性もたくさん描かれている。それらの女性は、身なりもよく、けっしてうらぶれた感じではない。扇・たきもの・帯・白粉を商っていた女性も描かれている。時に春を売っていた白拍子・曲舞い・巫女・辻君・たち君なども描かれている。
16世紀に成立したといわれる『七十一番職人歌合』は、中世は女性の時代でもあったということがよくわかる史料である。こうした白拍子や辻君、たち君を初めとした春を売る女性達を一か所に集める政策は、秀吉の時代になると本格化するようである。信長の時代にはまだ統制策はとられていなかった。天正16(1588)年、「天下の傾城国家の費(ついえ)也」(『多聞院日記』)との理由から、天正17年には二条柳町に遊廓が置かれた。この時には上・中・下の三町が開かれた。ここには京都市中の傾城屋もすべて集められた。
 慶長7(1602)年には、京都の遊廓は六条に移された。ここでは、遊廓の中に上・中・下の三本の道路を通した所から、「六条三筋町」と呼ばれた。入口には木戸が設けられたらしいが、掘り割りなどは設けられなかった。そして、寛永17(1640)年には、本絵図地図資料集成にもはっきりと記載がある、島原へと移転させられていくのである。島原は当時は新開地であった。ここは1万3000坪余の敷地であった。周囲に堀と土居をめぐらしていた。島原遊廓の入口には一か所だけ門が作られた。ここに京都の遊廓の囲い込みが完全に成立したのであった。新開地へ移転とか、周囲を囲むとか、江戸における吉原と同様の経過をたどったことがわかる。
本絵図地図資料集成は、京都の切り絵図ともいうべき性格のものである。当然、見ているといろんなことに気がつかされる。京都駅を降りるとすぐに、お城のような東本願寺の巨大な建物が見えるが、あの建物は、元禄9(1696)年制作で、「京図」には、「正親町院御宇、天正18年建立ス」という記載がある。天正18年といえば1590年であるから、比較的新しい。
同じく西本願寺を見ると、「寺領40石 正親町院天正19年始テ建立」とある。つまり西本願寺は、東本願寺よりも一年遅れて建てられたことがわかるのである。その西本願寺の西側には、「島原けいせい町」が西本願寺と同じくらいの規模で描かれている。歴史が古いという点では、西本願寺の北側に描かれている本圀寺のほうが、本願寺よりも古いらしい。同じ「京図」には、「寺領155石余 後醍醐天皇御宇建立」とあるから、南北朝の時代である。  
 この「京図」には三十三間堂の「寸法」が64間1尺8寸余だったとか、今はなくなっている京都大仏の大仏殿の大きさが、細かく書き込まれていたりする。一条札の辻より大津や大坂、石山、伏見、淀、宇治、醍醐、山崎などへの距離数も出ているから、極めて便利な絵図である。「京都禁苑図」には「禁中総図」があるが、こうした見取り図は今日で言えば「極秘」に類する物ではないか、と考えられる。  「中昔京師荒慶世之図」を見ると、「蓮台野」のところには「三昧」の書き込みがあり、その右側の方には「後花園院陵」の隣に、「悲田院旧地」とある。「田中里」の所には、「穢多村」の記載があり、「エタココニ始ル」との記載も見られる。京都における「穢多」はここからみな他へ移動した、という意味なのであろうか。それとも別の意味があるのであろうか。少なくとも、この「中昔図」が製作された頃には、そう信じられていた、のであろうか。
 「糺河原」のすぐ近くには、「唱門師村」も記載されている。この名称から考えると、中世社会の匂いが濃い記載である。「大津道」(これは後の東海道か?)の三条河原の所には、鴨川に沿って「悲田院」も記載されている。この「中昔図」は、応仁の乱から秀吉の天下統一までの期間の京都の変化を、地図で表現しようと作成されたもの、らしい。そのために大内裏も描かれていないが、上京と下京には人家もあり、賑っていた様子がわかる。五条大橋は架けられていたが、そのほかの橋はひとつも描かれていない。中世京都の様子を伝える絵図としては、極めて貴重である。
 「西京全図」には、祇園社の門前に「芝居」との記載が二か所ある。三十三間堂の隣には「アマベエタ村」が、そこから少し離れて「悲田院」も記載されている。七条の高瀬川沿いと、高瀬川・鴨川に挟まれた所にそれぞれ「エタ村」が書き込まれている。
 「文久改刻 繁栄京都御絵図」には、清水寺下の「大谷」とある所には「牢ノ谷」との記載がある。大仏殿の横には「秀吉公塔」と「耳塚」が、三条大橋の所には「アマベエタ村」が、そこからやや離れて「悲田院」が記載されている。「きおん町」のところには「芝居」も二か所書き込まれている。この「芝居」とある南側の場所が、現在の南座の櫓になる。ここには「阿国歌舞伎発祥地碑」があり、四条通りを挟んで出雲阿国像も建てられている。さらに、悲田院の西北には「非人小ヤ」の記載もある。 「洛中洛外町之小名大成京細見絵図」には「蓮台寺」の横に「穢多村」が、小町寺の横には「ハタエタ」が、「くらまくち通」の川沿いには「非人小ヤ」が、百万遍には「エタ村」が書き込まれている。五条橋を少し東に行くと「ひ人小ヤ」もある。京都の南を見てみると、七条河原の西の高瀬川に沿って「エタ村」がある。ここでは一か所だけの記載である。「エタ村」の西には「火屋」があるが、この火屋はいろいろな絵図地図に記載がある。火屋は火葬場のことである。
  このように見てくると、京都の場合、近世の非人居住地は、現在の「同和地区」指定はされていない様だ。七条の高瀬川沿いの地域をどう考えるか、という問題はあるが、近世の絵図地図に「エタ村」記載がされている所が、現在の部落問題と直接的に関連している、と見て良い。現在、通称「西三条」といわれている地域も、近世の絵図地図には「エタ村」と記載されている。
5、おわりに
 本絵図地図資料集成を見ていると、織田信長はなぜ本能寺へ泊まったのか、その意味がわかったような気がする。それというのは、追分から京都市内のほうへ降りて来て、鴨川を渡るとすぐに本能寺がある。大津や岐阜方面から京都へ入ってくる道路は、近世には東海道になるから、それ以前からの主要道であろう。信長としたら、一旦危急の変事があれば、この道路を通り、すぐに本拠地へと逃げ帰れる場所だったのである。また、「アマベエタ村」とある三条は、近世にはこの東海道に沿って位置していることが確認できるから、近世には街道警備の役割があったはずである。田中村や西三条も同様であろう。
 京都の町の枠組みは、近世からそれほど大きくは変わっていない、といわれている。しかし、そうとばかりは言えないのではないか。ともあれ、本絵図地図資料集成がいろんな角度から利用される様に願ってやまない。
 なお、本稿執筆にあたり、主な参考文献をあげれば以下の通りである。  『京都の歴史』の各巻、京都市史編纂所
『部落の歴史 近畿編』部落問題研究所
『別冊太陽 京都古地図散歩』平凡社  
『日本映画発達史』1~3巻、中公文庫
『町衆』中公新書  
『妹の力』筑摩文庫
  また、京都部落史研究所からは、『京都の部落史』全10巻が刊行されている。これは部落史研究の金字塔的な刊行物である。なお、本絵図地図資料集成では、資料的価値を重視する立場から、被差別部落地名を削除せずにそのまま載せている。大方の御了解をお願いしたい。
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本地図集成(第I期)の特色


(1)江戸時代の政治・経済・文化・地誌・学問を研究するための基本資料集成----基本資料としての江戸時代の地図群を網羅して集大成。

(2)丁寧でかつ精密な編纂方式を採用----原図の内容水準を確保し、閲覧と研究を容易にするために、A2版及びA1版の黒白版で複製。日本全国を十二地域に分割し、地方史研究にも対応できるものとした。

(3)さまざまな分野で活用できる資料集成---地図学のみならず、歴史学、文学などの分野でも活用可能。

(4)内容の理解を容易にするために、附録として、『近世絵図地図資料に関する書誌的データ一覧』(仮題)を作成。これにより、天正年間以降に作成された地図群の詳細な内容が俯瞰できる。

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