近世絵図地図資料集成 第7巻(大坂・堺・攝津・河内・和泉)
商品コード: ISBN4-7603-0133-X C3325 \250000E

近世絵図地図資料集成 第7巻(大坂・堺・攝津・河内・和泉)

販売価格:
250,000円    (税込:270,000円)
[第7巻]大坂・堺・摂津・河内・和泉(1998年5月刊行)[第3回配本]

〈第1期・全12巻・全巻完結〉
The Collected Maps and Pictures Produced in Yedo Era--First Series
近世繪圖地圖資料研究会 編
A2版及びA1版・袋入・全12巻・限定100部・分売可
各巻本体価格 250,000円
揃本体価格 3,000,000円
[第1期・全12巻の内容構成]

(解説)
大阪の都市空間と地図
-「近世絵図地図資料集成第VII巻」によせて-

1.はじめに

 この地図集は、近世の摂津・河内・和泉を中心とした地域の絵図・地図から構成されている。
 さらには大和や播磨といった周辺諸国の一部も含んでいる。しかし基本的には摂津国を中心としている地図集で、現在の大阪府・市を核としている、と考えていただいてさしつかえない。
 近世の地図出版にあたって、特に細心の注意をはらわなければならないのは、今日に連続している被差別部落の存在についての配慮である。
 近世の地図には、かならずといってよいほどに「穢多村」とか「非人村」といった記載がある。全国的に見られる傾向であるが、「非人村」は明治以降に消滅してしまっている所が、かなり見られる。
 それに対し、「穢多村」と称された地域は、わずかの例外を除いて、明治以降も近世と同じ場所に残ったのである。残った理由は、様々な要素が考えられる。しかがって、近世の絵図であっても、フリーパスで出版する、というわけにはいかない。
 それに、近世に「穢多」といわれていた人々が、みずからはそう呼んでいなかった、という事実もある。穢多と呼んだのは幕府や藩という権力側であって、自分たちみずからは、別の呼び方をしていたのだが、実際にはよくわかっていない。
 本稿では、部落問題を中心に報告し、解説にかえたい、と考える。

2.本地図集の特長

 従来の近世大坂(阪)図では、幕末頃に制作された絵図がよく知られている。この地図集では「写」ではあるが「石山古城図」を収録している。これは、織田信長が全国統一事業をすすめていく際の、最大の抵抗勢力であった石山本願寺攻めの模様を描いた絵図である。描かれたのは近世だが、戦国期の大坂の様子を描いたものとして貴重である。
 長島一向一揆・越前一向一揆では信長は長年苦しめられた。そのため越前一向一揆を平定した後、信長は門徒衆三万人から四万人を殺した、といわれている。一向宗とは親鸞を祖とする浄土真宗のことである。
 石山本願寺は、現在の大阪城の下にあった。信長は石山本願寺の一揆勢とは11年間にわたって戦いを続けた。一揆の門徒衆は死をも恐れないという、頑強な抵抗勢力であった。だが、1580(天正8)年に信長と石山方は和議を結び、石山本願寺は紀伊へと移った。「石山古城図」は、この時の一揆勢と、攻める信長方の諸大名の陣の配置を表わしたものであり、どのような人々が参加していたのかがわかる絵図である。
 この「石山古城図」をはじめ、大坂冬の陣(1614年)、大坂夏の陣(1615年)の図を「大坂五戦之図」として収録したが、これらの絵図は。諸大名の軍勢の配置を知るだけでなく、近世初頭の大坂の地形を知りうる地形図といってもよい性格の絵図である。
 大坂に限ったことではないが、近世の地図・絵図は、同時代に作られたのにもかかわらず、寺社や街並みの表記に大変な違いのあるものが散見される。当然記されているはずの寺社名が略されていたり、池や沼、河川の名称がほとんど記されていないものなどがある。
 それとは反対に「細見図」は大変に詳しく表記されており、今日の街並みと比較するのにも、大変に便利である。こうした細見図が一枚あると、今日でも街歩きが可能なのである。戦災で街並みは一変した、とよく言われるが、それは正しくない。
 しかし、同時に便利さという点は危険とも背中合わせの関係にある。
 近世の大坂にしろ江戸の街にしても、基本的な枠組みは現在でもほとんど変わっていない。変わったのは、堀り割りが埋めたてられて高速道路が走ったり、木造住宅が鉄筋コンクリートのビルになったり、武家屋敷が官庁や学校などの公共施設になったくらいである。これが、かつての城下町であった地方都市へ行けば、なおさら街並みの変化は、近世以来本当に乏しい現実がある。江戸・東京にしても、近世絵図で街歩きは可能なのである。
 筆者は「近世絵図地図資料集成」の江戸地図集の解説として「古地図と部落問題」を書いた。その中でも指摘しておいたが、部落問題の視点から絵図・地図をどう読み解くのか、今もまだ誰もまともには取りあげていないのである。わずかに、京都に関して師岡佑行氏の論稿があるだけである。
 古地図をどう読み解くか、部落問題に関わる地名表記をどうするのか、もう少し関係者の議論がおこってもよいではないか。
 地図製作者側の個性が表われていると考えられる問題のひとつが、近世部落に関する表記である。江戸の場合にも、弾左衛門屋敷は「穢多村」と表記され、小文字で「俗に新町ト云」と書き込みがある。しかし、非人の居住地は「乞食村」であったり「非人小屋」と記されていたりするのである。
 大坂の例でも、渡辺村は「穢多村」と表記されていたり、単に「渡辺村」とだけ記されている。しかし、非人に関しては表記が「非人村」、「非人小屋」、「長吏」などの記載がみられるのである。近世大坂の場合、「四ケ所非人」の存在がよく知られ、その居住地は大阪城を囲むような形で置かれている、という特徴がある。これは後にも詳しくふれる。
 こうした表記の違いは、幕末の政策によるものなのか、あるいは単に地図製作者側の「気まぐれ」なのか、現在のところ見極めがたいのである。いずれにしても、様々な種類の絵図や地図が板行されていた、という点だけはまちがいのない事実である。江戸時代の出版技術は、かなり高かったのである。筆者は、表記の違いは製作者側の認識の示すところである、と考えている。同時に、表記の違いは、人々にとっての、それら「非人」に対する認識の混乱を示すものでもある、と考える。

3.地図とその時代

 次に、本地図集に収録されているもののうち、特徴的な地図について触れていくことにしたい(図1参照)。
 まず「大坂古図」のうち「石山古城図」をとりあげて検討したい。大坂は堀り割りが発達した大街であるが、石山本願寺のあった頃には、こうした街の形はでき上がっていた様である。
 その堀り割りにつながる大和川と北河内川、近江川の合流する地点の丘の上に「石山御堂」がるが、ここが石山本願寺のあった所である。地図には「当時篭城門徒四万人餘」と書き込みがある。石山御堂の北側の所には、「天王寺跡」という記載もある。
 石山御堂と「渡辺橋 川幅二百六十間」と記された対岸に「佐々成政本陣」とその後ろには「織田信長本陣」が書き込まれている。信長の本陣があったのは天満山で、当時は山があったようだ。信長本陣のすぐ西側には、「本庄某川ヲ守ル処裏切シテ石山ヘ入」との書き込みもあり、合戦中の緊張感が伝わってくる。さかんに情報戦がたたかわされていた、とみられる。
 石山本願寺を攻める側の勢力は、主に石山御堂の西側一帯に本陣を布き、堀江橋筋の堀り割りより東側一帯は本願寺側の勢力が展開していた。四天王寺の西側には「此処石山方忍者ヲ置」という記載があり、合戦に際して活躍していた忍者の存在もあったことが確認できるのである。
 伊勢長島一揆でも、一揆側は輪中(わじゅう)と呼ばれる地形を最大限に利用した作戦をたてたり、川や池の中に桶や壷を埋めこんで、馬や兵士の進撃を止めるなど、信長軍を混乱させ、そこを総攻撃するなどして、二度も撃退させている。
 桶や壷に馬や人間が足をとられ、動けないでいる所を弓矢や鉄砲で攻撃をかけたのである。これは忍法のひとつである。
 一向一揆研究は、部落史研究の上からも注目を集めている。
 一向一揆に悩まされた織田信長はじめ、秀吉や家康にしても、その勢力をいかに封じ込めるかに腐心した結果、今日に連続する被差別部落の成立に至ったのではないか、というのである。部落「近世政治起源説」といわれる考え方である。『被差別部落の起源』(寺木伸明、明石書店)は、この点を究明したものである。詳しくは、同書を参照されたい。
 雑賀衆や根来衆は、石山本願寺の合戦では、たんに鉄砲衆としてだけではなく、寺防衛のための作戦参謀をつとめていた、とみてよい。伊勢長島一揆のときには伊賀者が作戦参謀をつとめていた、とみられる。
 当時の忍者は「忍(しの)び」と呼ばれ、一般的には敵情偵察やニセ情報を敵方に流して部隊を混乱させたり、という、主に裏方として活躍した。石山合戦の解きには雑賀衆や根来衆が、この任務にあたっていたのであろう。
 その雑賀衆は、「石山古城図」には高津に陣を構えていたことが見えている。雑賀衆の陣のすぐ東側には「七不思議栴檀」の書き込みがある。この栴檀は近世の絵図にも書き込まれているから、かなり後まで自生していたとみられる。当時の大坂では有名な存在だったらしい。
 こうした、攻める信長軍と守る石山本願寺両軍の陣と陣の間をぬうように、古城図には「石山方早鐘ツキバ」が、本願寺を取り囲む形で置かれている。戦国時代の情報伝達には狼煙や鐘が使われていたが、石山合戦でも使用されていたことが、この図からもわかるのである。当時は狼煙の色を変えて危急の用件を伝えたり、鐘の撞き方で何があったかを知らせたのであった。
 合戦の緊迫感が伝わってくる記載は、この他にもある。
 現在は在日韓国・朝鮮人四万人以上が暮らすといわれる猪飼野は、百済川筋の西側一帯に記載があるが、そこには「松永陣代千四百人」の記載とともに「橋ヲ引ク」とある。さらにその西側には「大和勢五百人」(これは門徒宗であろう)とあり、その陣の正面にあった「猪飼ハシ」は、「橋ヲ引ク」と書き込まれている。要するに、合戦に備えて石山方が橋をこわして落した、ということなのだろう。織田方に、石山本願寺まで一挙に攻めこまれないためにとった作戦のひとつ、といってよい。猪飼野は、大坂環状線・鶴橋駅周辺から東側一帯であるが、現在はこの地名は正式には使われていない。駅におり立つと、どこからともなくキムチの臭いがただよってくる。

4.部落の表記をめぐって

(1).エタ村について

 ところで、「石山古城図」には、すでに部落問題に関する記載があらわれている。
 現在の大阪湾になるが、石山本願寺からみると南西の方向になる。その湾内に「寺嶋」があり、「石山方ノ砦」が記載されている。その説明のための書き込みと考えられるのだが、「エタが崎砦ト云」という表記がある。
 近世の絵図や地図は縮尺がかなりいいかげんだから断定はできないが、ここは近世には「渡辺村」よ呼ばれたかたわ村と重なり合う地ではないか、と考えられる。渡辺村は近世には天領であって、独自の年寄をもっていたほか、身分は大坂奉行の直接支配をうけた。
 じつは、渡辺村は村の成立当初から現在地にあったわけではない。
 「天正十三年町ヲ分ル 大坂分町地図 慶長十七年著図」(本地図集に収録)には、「渡辺村 天正年中渡辺橋ノ南ヨリ此ニ遷ル 穢多村也」との記載がある。
 「中旧 大坂三郷地図」(宝暦七年--本地図集No.三二・三三)にも「昔シ天神橋ノ南 渡辺ノ地ニアリ 文禄年此ニ引遷ル 其ノ跡町トナル」と渡辺村の解説がなされている。
 ここに記されている天神橋と渡辺橋というのは、大阪城のすぐ近くにあって、「官上近世大坂地図」(宝暦二年--本地図集No.二九・三○)には、「渡辺橋又ハ大江橋又ハ天神橋」との書き込みがあり、同一の橋であったことがわかる。こうした橋の名前ひとつとってみても、近世の絵図や地図を一枚だけ見ていては、理解できないのである。いろんな時期の物を重ねて見ると、いろんな事実がわかるのである。本地図集の特長のひとつもこの点にある。
 実際、渡辺村の前身は応仁の乱ののち、淀川のほとりに散所村がつくられて、坐摩(ざま)神社に隷属して皮革生産や神社の清掃などの仕事に携わっていた餌取があった、といわれている。そして石山本願寺がつくられると、寺に奉仕する河原者もみられるようになった。
 その後、一五八三(天正一一)年に大坂城が築城されると、渡辺村は城下町となり坐摩神社の大半が没収されてしまうのであった。すると、神社に奉仕していた河原者達は、天満、博労、木津、船場などに分散してしまい、坐摩神社との関係はうすくなった。
 しかし、徳川幕府が成立すると、それらの河原者達は、まず南渡辺の地へ集められ、さらに元和年間(一六一五~二三年)に至り、西成郡下難波村領に移動させられ、一七○一(元禄一四)年に至り、現在地へと移動させられて定着することとなった。渡辺村は、戦前には「西浜」と呼ばれ、「全国一の部落」といわれるほど規模の大きい部落であった。
 渡辺村の元々が坐摩神社との関係から始まるのは、まずまちがいないといってよい。その坐摩神社は、石山本願寺やその跡に築城された大坂城とは非常に近い所にあった。先に記した渡辺村の書き込みは、こうした移動の事実を裏づけるものである。ただし、移動してきた年代の記述は「天正年中」(一五七三~九一年)、「文禄年中」(一五九二~九五)と若干の違いがある。
 だが、元々は別の所にあって、移動させられて最終的に現在地へ移ってきたのは、まちがいのない所である。「部落」は移動するのである
現在、各地に残っている寺や神社にしても、創立の頃よりずっと移動もせずにいた、と思うのはまちがいである。移動するのは、何も部落だけではない。寺とか神社も、あちこち移動した結果、現在地へ定着したという伝承や史料を伝えている所が多く見られるのである。
 近世部落の呼称についても、少し気になる点がある。「石山古城図」ではないが、宝暦二年制作の「摂州大坂旧地図」には、渡辺村に関して「穢多邑」との記載がある、書き込みには、「元ソ渡辺橋ノ南ニアリテ…」と他の地図と同様の説明がある(No.六)。
 広く全国的に見られることであるが、近世の非人が「番太(多)」と呼ばれて、街道や宿場の警備・清掃などの任務にあたっていたのは、よく知られている。
 その番太(多)を、幕末の伊能忠敬作成になる、いわゆる「伊能図」では「番田」という表記で、現在の岡山県下に一ケ所書き込みがある。瀬戸内海沿いの地点である。
 穢多も番太(多)も、一般的には「多」ないし「太」という文字で表記される。「田」という表記は別に通称であって、意味はないのかもしれないが、地図製作の年代も場所も違う地点での共通性、という点から、何らかの意味があったのかもしれない、と考える。今後の調査に待ちたい。
 ところで、近世社会は「士農工商エタ非人」というタテの身分社会だった、と長く主張されてきた。その主張は教科書にも登場し、全国一斉に教えられてきたのは、周知の事実である。「部落近世政治起源説」にもとづいた考え方である。
 問題なのは、そうした近世政治起源説にわざわいされて、全国各地での部落の呼称の違いを、まったく調査していない所にある。
 部落史研究の「ひきこもり」現象である。近世の部落は、全国どこでも「エタ」と呼ばれていたわけではないのである(詳しくは拙著『江戸の部落』三一書房を参照のこと)。
 名称の違いは歴史の違いであり、担っていた役割や性格の違いなのである。近世の部落の呼称が、なぜに全国各地で違っていたのか、実は何もわかっていないのである。また、近世のエタと呼ばれた人々が、自分たちみずからは、何と呼んでいたのかもわかっていないことは、前にもふれた通りである。
 エタと呼ばれていた、と断定してしまえば可能性は閉じてしまうが、そうではなかった、と考えれば、研究の可能性は無限に拡がる。「ひきこもり」から外に出る必要があるのではないか。同時に、エタとされた人々が住んでいた周辺社会の分析も重要な課題となる。
 大坂の陣における各武将の配置を記した「大坂五戦之図第一」(No.一五)には、南西隅の日本橋のところに「穢多ガ城砦」という記載が見えている。「後代之道頓堀」よりも少し北側に位置しているから、現在の大阪市内の中心である。「雑兵八百篭」という書き込みもある。
 しかし、「大坂五戦之図第四」(No.一八)には、第一図にあった「穢多ガ城砦」の記載は消えている。砦があった所には浅野但馬守、松平土佐守の陣があった、と書き込まれている。ここは恒常的な砦ではなく、臨時の砦ないしは城であったとみられる。
 ところが、「大坂五戦之図第五」(No.一九)には、「穢多城」という記載が出てくる。「大坂五戦之図第一」に見えた砦よりも、かなり西側に位置している。穢多城より南には「難波」、「木津」の記載がある。城は当時の大阪湾に面した所にあった。
 この穢多城に関しては、さきに見た「大坂五戦之図第四」に、次ぎのような書き込みがなされているのでふれておきたい。
 「(一六一四年)十月十一日権現様駿河御出馬、同二三日御上洛、十一月十五日京御出大和地ヘ御越住吉ヘ、同十七日御著陣、同二二日台徳院様江戸御出馬、十一月十日伏見へん御著陣、同十七日平野ヘ御出馬、十一月十八日穢多城蜂須賀阿波守乗取、同二九薄田隼人カ持口博労渕ヲ石川主殿助乗取、其白大野修理後藤又兵衛ハカライニテ船場ヲ焼ク、十二月十六日蜂須賀持口ヘ城中ヨリ夜討、同二十日御和睦、同二十二日御和議、之後木村長門郡主馬茶臼山ヘ参リ御誓紙受取、同二十五日権現様京ヘ御帰陣(以下略)」
 つまり、穢多城は大坂方(豊臣方)の城であって徳川方の蜂須賀阿波守によって「乗取」られたのであった。穢多城というのは、一体どのような人達によって築かれ、守られていたのであるか。
 「大坂五戦之図」に、特に書き込みがある点から考えて、この城の乗取りは特筆大書すべき事柄であった、らしいことである。この城のあった位置は、後の世に「穢多村」とされる渡辺村の地であったとみられる。
 渡辺村は、元々は大坂城の近くにあった渡辺橋の南にあったことは、さきにもふれた通りである。だが、どのような人々が住民であったのか、については詳しくわからない。この点は渡辺村だけでなく、全国的にみても同様である。
 「五戦之図」の書き込みは、この点を考えるヒントを与えてくれているようだ。
 近世の渡辺村と穢多城の位置が、ピッタリ一致するか、少しズレがあるにしても、はっきりしている事は、大坂の陣で敗けた側が渡辺村に囲い込まれたらしい、ということである。地図には「穢多」とあっても、必ずしもエタと呼ばれた人々ばかりが城の中に立てこもっていたわけではないであろう。そこには名のある武士や浪人、真宗門徒もいたはずである。徳川に逆らった罰の意味でのエタという烙印であった、と考えられる。
 全国的に聞かれるのであるが、部落形成伝承の中には、「大阪の陣で敗けてこちらへ逃げてきた」といった話が残されている。元々から「エタ」であったわけではない、といってよいであろう。それに、「エタ」とは誰をさす言葉であったのか。
 大坂の陣のとき家康の本陣は住吉にあった。天王寺より住吉までは「二里」であった、と別の大坂の陣図は伝えている。
 本書に収録した別の大坂の陣図(No.二二図)には、「穢多崎」とあるが、書き込みでは蜂須賀阿波守が乗取ったとあるから、「五戦之図」と同様の内容である。位置も変わらない。「五戦之図第五」にある「穢多城」とは表記が違うだけ、とみてよい。No.二六図には「穢多寄」とあるが、これも同様であろう。
 No.二六図には「真田左衛門(幸村)討死」とか、大坂方の武将の中に「根来衆」もいたことが書き込まれている。根来衆は忍者であり、真宗門徒でもあった、とみられる。
 No.二五とNo.二七図には、西郡の所に「穢多村」が見える。周辺には多くの武将が討死した様子がわかる書き込みもある。服部川の所には「首五百六十討取之」とある。
 この時代、人間の首をかき集める専門の人々がいたらしい。それというのも、人間の脳が漢方薬の原料となったからである。名のある武将なら、首塚がつくられるが、無名の兵士の場合には「敵味方合埋塚」などが作られた。現在でも、各地にこうした塚が残されている。
 人間の脳が、公然と手に入らなくなってからは、猿の脳がこれに代わった。だが、非合法の入手方法はかなり後生まで残り、火葬場で焼かれる前に脳をぬくことも、かなり行われていたらしい。新聞記事にはそうした「猟奇事件」が時たま報道されている。こうした事件が「おん亡」と呼ばれた火葬場労働者に対する差別意識を強めたであろうことはまちがいない。

(2).非人村について

 「官上 近世大坂地図」(No.二九図)は宝暦二(一七五二)年に完成したものだが、この頃になると、現在の大阪市内とほぼ同様の街並みとなる。大坂の陣の傷跡も消えて、大坂の街が活況を呈していた時代とみられる。
 この図には、難波の近くに「穢多村」が出てくる。村とはいえ、かなり規模が大きかったらしく、村の中に寺が三ケ寺書き込まれている。寺の名前はないが、これは現在も一ケ寺だけ残っている真宗の寺のことである、と考えられる。他の二ケ寺は移転してしまい、今は残っていない。この周辺は太平洋戦争中、空襲で焼け野原となったから、昭和三○年以前の建物は、ほとんど残っていない。
 No.三一図は「官上 近世大坂地図」の一部をなすものだが、ここには四天王寺の近くに「罪人丁」があり、天王寺村の脇には「垣外邑」、同じく鳶田墓の隣りには「垣外邑」と「」鳶田垣外
が書き込まれている。四天王寺近くの罪人丁は、別の大坂図に「非人村」と出てくる所である。垣外というのは、近世大坂の非人の居住地である。
 この図では千日墓地の所は、「ヤツコ塚」と「墓所」だけが書き込まれていて、非人の名称はみられない。四天王寺の近くの毘沙門池の所も、さきにみたように罪人丁である。
 No.三三図は「中旧 大坂三郷地図」(宝暦七・一七五七年)だが、ここには千日墓地の所には「千日寺」と「千日火屋」があったことが知られる。火屋というのは火葬場のことであり、たいてい町や村のはずれにあった。
 同じ地図(No.三三)では、渡辺村の名称ともなった大坂城近くの渡辺橋が「天神橋」となったことが書き込まれている。こうした変化は、製作年代の違う地図を系統的に重ねてみないと、見落としてしまいかねない。
 千日寺の、やや城に近い所に道頓堀が流れているが、ここには「芝居」町があった(No.四一図参照)。「近旧 大坂地図」(No.四二図)では、七太夫ほかの四座の芝居小屋があった様子がわかる。同図は「宝暦」(一七五一~一七六三)年間に写されたものである。
 同じ宝暦図でも、やはり他の地図とはかなり情報量がちがっている。やはり作り手によって、少しずつ特徴がある。
 芝居町は、別の地図(たとえば「摂津大坂図鑑綱目大成」)では櫓が組まれていたり、幟がたてられていたと思われる書き込みもなされている(No.五九、No.六一図)。
 「官上 大坂地図」(No.六三~六五)は宝暦二(一七五二)年製作の地図だが、「大川」沿いの所に「乞食村」が、鳶田には「仕置場」と「垣外邑」、四天王寺の隣りには「乞食邑」、同じく四天王寺の南側には「垣外邑」と「垣外ノ邑」が、それぞれ描かれている。渡辺村の所は「穢多」とある。
 右の図では、鳶田に刑場があったことがわかる。刑場は千日寺の近くが有名だが、ここだけではなかったのである。鳶田の刑場は堺へ向かう街道沿いにあった。
 非人村に関しては、「増補 大坂図」(No.六六)に、城にかなり近い所に「非人小屋」の記載がある。城の北側の大川沿いに非人村が、渡辺村は「穢多村」と書き込まれている。この図は天明七(一七八七)年に板行されたものである。
 大坂城に近い所の非人に関して、携わっていた仕事をうかがわせる地図が、「寛政元」(一七八九)年に出された(No.六七)。
 それによると、非人小屋の東側には「瓦屋請地」とあり、かなり広い範囲が請地であった。ここにいた非人は、瓦を焼く仕事に従事していた、とみられる。近世には名古屋城下の非人も瓦を焼く仕事に携わっていたようだ。
 寛政元年の大坂図には、近世大坂に居住した「四ケ所非人」がすべて書き込まれている。四天王寺の近く、千日墓の隣り、大坂城より北の大川沿いの所(No.六八図)の四ケ所である。
 同図には、茶臼山の南側にも「非人」との記載があるが、ここは町外であったのだろう。また、渡辺村の西側に「今木新田」と記載された島があるが、そこに「刑場」との書き込みも見られる。木津川の中洲のような島である。ここにも刑場があった。
 寛政元年発行になる同図は、天保三(一八三二)年に「補刻」の上で刊行されたものである。幕末の大坂の様子をうかがい知る貴重な地図といえよう。
 もうひとつ付け加えておくと、「瓦屋請地」の所の非人は、No.六八図では、元の場所からやや東側へ移動させられている。元の居住地の所には、「瓦土取バ」の書き込みがある。
 瓦を焼く土というのは、粘土質の土でないと良い瓦が焼けない。だから、どこの土でも良い、というわけにはいかないのである。ここで焼かれていた瓦の原料は、自給されていた、とみられる。焼かれた瓦は、近くの寺町の寺院の屋根を葺くのに使われたのだろうか。
 周知のように、関東地方における被差別部落の呼称は、長吏という。近世の文書にも長吏という記載があるから、かなり以前から使用されていた様子が知られる。しかし、いつ頃から定着した言葉なのか、現在のところ何もわかっていない。
 ところが、大坂では近世の非人が長吏とも呼ばれていたらしいのである。それを示すのが、弘化四(一八四七)年製作になる地図である(No.七二図)。
 No.七二図には、四天王寺のすぐ南側のところに、「長吏」との記載がある。別の地図には非人村(邑)と出てくる所に、そう書き込まれている。近世大坂の非人は、世襲の長吏の下に支配され、他の地域の非人と同様、犯罪人の探索、刑場の公役、死体の処理、町内の治安維持などにあたっていた。長吏記載はNo.七五図などにも見える。
 ところで穢多村と表記される渡辺村であるが、弘化年間に板行された地図によれば、元々の渡辺橋から西側の川を越えた所にある月正嶋に、「穢多新家」との記載がみられるようになる(No.七六図)。渡辺村の人口増加がこのような現象を生んだ、と考えられる。
 同図には、月正嶋をさらに西へ越えた所に「刑場」の書き込みもある。ここはやはり長く刑場であった。明治に至るまで使用されていたとみられる。
 本書には、「浪速古図」を何図か収録している。古図に描かれている寺院や神社、島や川が正確に、当代の描写かどうかはもう少し検討を要するが、おおよその見当り図としては利用できるであろう。
 その名かの一枚に、「堀河帝御宇」と書き込みのある古図がある。堀河天皇は、一○八六年から一一○七年まで在位した、といわれる。
 同図(No.一三三)には、後世の非人の居住地との関連で注目される記載が四天王寺周辺にはある。施薬院と療病院がそれだが、この施設は四天王寺北側を流れていた川の端にあったらしい。「梅の橋」という記載もある。
 中世初頭の四天王寺周辺は、堀江川などが流れる島のようであったとみられるが、当時からかなり大きな寺であったようだ。二つの施設はハンセン病や障害者、非人のための施設と考えられる。
 四天王寺から、更に北に進んだ所には座摩社と南渡辺の記載もある。座摩神社は西側に向いて社殿が建っていたらしい。西は大坂湾になる。座摩神社は、かなり古くから存在した神社らしいことが、こうした古図から伺い知れるのである。
 浪速古図のうち「後小松帝御宇」とある古図には、座摩神社の北側に架けられていたらしい渡辺橋には、「川巾二百六十間」という書き込みがなされている。橋は堀河帝の古図にも描かれているから、かなり古い時代にもあったとみられるが、この橋はどのような橋であったのだろうか。木橋か船橋であったのか。

5.おわりに

 近世大坂の絵図・地図を、部落問題を中心に、特徴的な部分に付いてみてきた。地図一枚からでも街の移り変わり、果たしていた役割などが伺い知れることが理解されたであろう。
 これまでの部落史研究では、文書記録の分析が中心であって、地図から部落史に迫った研究は、皆無に等しい。しかし、ここに見てきたように、一枚一枚の地図は特徴はないかもしれないが、数が集まれば、かなり様々なことが読みとれることがわかった。
 部落の置かれている所は、必ず何らかの理由があるはずである。何の理由もなく存在しているはずはない。近世の渡辺村がその良い例である。
 非人部落にしても、近世社会だけでなくそれ以前の歴史も考慮に入れて検討されなくてはならないであろう。表記の変化も、なぜなのか調査しなくてはならない。
 景観から歴史を読む、という研究法は、地図研究者の間ではあたり前になっている。部落史研究も、そうした成果に学ぶ必要があると考える。
 なお、この解説は大変に遅れて刊行される。迷惑をおかけした科学書院の加藤さんには、気長に待っていただいて、大変に感謝している。記してお礼を申しあげたい。わたくし事だが、娘の存在は原稿執筆の大きな支えとなった。
 本書は貴重な地図集成である。いろいろな分野からの利用をお願いしたい。
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本地図集成(第I期)の特色


(1)江戸時代の政治・経済・文化・地誌・学問を研究するための基本資料集成----基本資料としての江戸時代の地図群を網羅して集大成。

(2)丁寧でかつ精密な編纂方式を採用----原図の内容水準を確保し、閲覧と研究を容易にするために、A2版及びA1版の黒白版で複製。日本全国を十二地域に分割し、地方史研究にも対応できるものとした。

(3)さまざまな分野で活用できる資料集成---地図学のみならず、歴史学、文学などの分野でも活用可能。

(4)内容の理解を容易にするために、附録として、『近世絵図地図資料に関する書誌的データ一覧』(仮題)を作成。これにより、天正年間以降に作成された地図群の詳細な内容が俯瞰できる。

目 次

01[日本輿地圖]第41舗、攝津國難波古地圖
02[大坂古圖](石山古城圖)
03[日本輿地圖]第44舗、大坂内町圖(慶長年間)
04[日本輿地圖]第40舗、[攝州]大坂旧地圖(慶長十七年)
05[日本輿地圖]第39舗、攝州大坂畫圖(野村長兵衛刊)
06[日本輿地圖]第43舗、大坂分町地圖(慶長十七年)
07[大坂古圖](大坂五戰之圖一至五)
08大坂地圖(日本與地圖ノ内)
09大坂地圖(日本與地圖ノ内)
10[日本輿地圖]第37舗、[官上近世]大坂地圖
11[日本輿地圖]第38舗、[中舊]大坂三郷地圖(寛文・延寶間)
12新板大坂之図(額)大坂絵図
13延宝九年大阪繪圖
14[日本輿地圖]第42舗、近旧大坂地圖(天和三年)
15増補大坂図
16攝津大坂圖鑑綱目大成
17攝津大坂圖鑑綱目大成
18攝津大坂圖鑑綱目大成
19[日本輿地圖]第36舗、[官上]大坂地圖
20増補大坂図
21改正摂津大坂図
22摂津大坂図
23改正摂津大坂之図
24改正摂津大坂之図
25大坂町図
26大坂図
27大坂絵図
28化新板摂津大坂全図
29攝州大坂畫圖(攝州大坂大繪圖)
30改正摂津大坂図
31慶應改正大阪細見全圖、完
32攝津大坂圖鑑綱目大成
33安治川口囘船目印山地所細見圖
34[日本輿地圖]第47舗、[攝州泉州]堺両庄地圖(寶永元年)
35堺大絵図改正綱目
36寛政拾年堺絵図(簽)
37[日本輿地圖]第54舗、攝泉堺戎嶋地圖
38(摂津和泉播磨)国海岸附近村々麁絵図
39摂海一覧
40[日本輿地圖]第35舗、攝津國地圖
41攝津國名所大繪圖
42[大坂古圖](浪速古圖一至五)
43浪華上古圖、全
44難波上古之図(簽)
45[浪花之古圖](難波上古圖・浪華三津之浦・浪華圖・浪華三津之浦圖・浪華圖)
46浪速上古圖
47浪華古図第1-10(簽)[01]
48浪華古図第1-10(簽)古図(従仁徳帝至安閑帝)(額)[02]
49浪華古図第1-10(簽)村上帝至花山帝[03]
50浪華古図第1-10(簽)浪華古図後考[04]
51浪華古図第1-10(簽)浪花古図後考[05]
52浪華往古図
53浪華往古図(額・簽)
54浪華古図第1-10(簽)題目不明[06]
55堀河院御宇浪速古圖、56[攝津三津浦圖]
57堀河院天皇御宇承徳二年難波津圖
58[承徳二年浪花之圖]
59浪華古図第1-10(簽)浪華荒川盛子徳年写[07]
60後小松院天皇御宇應永二年難波津圖
61応永難波古図(額・簽)
62[應永廿四年浪花之圖]
63浪華古図第1-10(簽)題目不明[08]
64大阪古図(簽)
65[日本輿地圖]第48舗、[攝津國嶋下郡]茨木之地圖(享保十八年)
66[日本輿地圖]第53舗、攝州榎並河州八箇両荘之地圖
67摂河州水損村々改正絵図(簽)
68大阪両川口并最寄海岸諸家固場所絵図(簽)
69大阪新田明細図
70榎並八郷悪水抜新井路筋並川筋御普請諸絵図
71南堀江弐丁目町図
72[日本輿地圖]第51舗、[攝津國東生郡]天王寺管内地圖
73[日本輿地圖]第45舗、攝州住吉東生西成三郡地圖
74[日本輿地圖]第50舗、[攝津國住吉郡杭全郷内]平野郷町地圖
75[日本輿地圖]第49舗、[攝津國川辺郡]伊丹地圖
76[日本輿地圖]第52舗、[攝津國武庫郡戸田庄]西宮町地圖
77[日本輿地圖]第46舗、[攝津國矢田部郡]福原荘兵庫地圖
78[日本輿地圖]第55舗、攝津州有馬郡湯山圖(元文二年刊)
79[日本輿地圖]第59舗、河内國旧地圖、80河内国絵図(簽)
81[日本輿地圖]第58舗、河内國地圖
82[日本輿地圖]第57舗、[官上]河内國地圖
83大坂地圖(日本與地圖ノ内)
84増補改正河内細見圖
85河内細見図(額)増補改正河内細見図(簽)
86増補改正河内国細見図(額)河内国大絵図(簽)
87河内國細見小圖
88河内國之圖
89[日本輿地圖]第61舗、[河州石川郡]金剛山千早圖
90[日本輿地圖]第60舗、河州錦部郡地圖
91和泉国之図
92大坂地圖(日本與地圖ノ内)
93改正和泉國大繪圖
94[日本輿地圖]第65舗、和泉國地圖
95[日本輿地圖]第63舗、和泉國地圖
○附録『大坂・堺・攝津・河内・和泉図に関する書誌的データ一覧』

解説

1、都市地図の特長

 この地図集は、近世の摂津・河内・和泉を中心とした地域の地図・絵図から構成されている。さらには大和や播磨といった周辺諸国の一部も含んでいるものである。しかし、基本的には現在の大阪府・大阪市を中心としている地図集である、と思ってもらってさしつかえない。
 従来の近世大坂図では、幕末頃の絵図がよく知られているが、この地図集には「写」ではあるが、「石山古城図」を収録している。これは、織田信長が全国統一事業を進めていく際の、最大の抵抗勢力であった石山本願寺攻めの模様を描いた絵図である。
 長島一向一揆・越前一向一揆では信長は長年苦しめられた。そのため越前一向一揆を平定した後、信長は門徒衆三万人から四万人を殺した、といわれている。一向宗とは親鸞を祖とする浄土真宗のことである。
 石山本願寺は、現在の大阪城の下にあった。信長は石山本願寺の一揆勢とは一一年間にわたって戦いを続けた。一揆の門徒衆は死をも恐れないという、頑強な抵抗勢力であった。だが、一五八○(天正八)年に信長と石山方は和議を結び、石山本願寺は紀伊へと移った。「石山古城図.」は、この時の一揆勢と、攻める信長方の諸大名の陣の配置を表したものである。
 この「石山古城図」をはじめ、大坂冬の陣(一六一四年)、大坂夏の陣(一六一五年)の図を「大坂五戦之図」として収録したが、これらの絵図は、諸大名の軍勢の配置を知るだけではなく、近世初頭の大坂の地形を知りうる地形図といってもよい性格の絵図である。
 大坂に限ったことではないが、近世の地図・絵図は、同時代に作られたのにもかかわらず、寺社や、街並み、の表記に大変な違いがある者が散見される。当然記されているはずの寺社名が略されていたり、池や沼、河川の名称はほとんど記されていないものなどがある。
 それとは反対に、「細見図」は大変に詳しく表記がなされており、今日の街並みと比較するのにも、大変に便利である。こうした細見図が一枚あると、今日でも街歩きが可能なのである。
 しかし、同時に便利さという点は危険とも背中合わせの関係にある。
 近世の大坂にしろ江戸の街にしても、基本的な枠組みは現在でもほとんど変わっていない。変わったのは、堀り割りが埋めたてられて高速道路が走ったり、木造住宅が鉄筋コンクリートのビルになったり、武家屋敷が官庁や学校などの公共施設になったくらいである。これが、かっての城下町であった地方都市へいけば、なおさら街並みの変化は、近世いらい本当に乏しい現実がある。江戸・東京にしても、近世絵図で街歩きは可能なのである。
 筆者は、「近世絵図地図資料集成」の江戸地図集の解説として、「古地図と部落問題」を書いておいた。その中でも指摘しておいたが、部落問題の視点から地図をどう読み解くのか、今もまだまともには取りあげられていないのである。わずかに、京都に関して師岡佑行氏の論稿があるだけである。
 古地図をどう読み解くか、部落問題に関わる地名表記をどうするのか、もう少し関係者の議論がおこってもよいのではないか。
 地図製作者側の個性が表われていると考えられる問題のひとつが、近世部落に関する表記である。江戸の場合にも、弾左衛門屋敷は「穢多村」と表記され、小字で「俗に新町ト云」とある。しかし、非人の居住地は「乞食村」であったり「非人小屋」と記されていたりするのである。
 大坂の例でも、渡辺村は「穢多村」と表記されていたり、単に「渡辺村」とだけ記されている。しかし、非人に関しては表記が「非人村」、「非人小屋」、「長吏」などの記載がみられるのである。近世大坂の場合、「四ケ所非人」の存在がよく知られ、その居住地は大坂城を囲むような形で置かれている、という特長がある。これは後にも詳しくふれる。
 こうした表記の違いは、幕府の政策によるものなのか、あるいは単に地図製作者側の「気まぐれ」なのか、現在のところ見極めがたいのである。いずれにしても、様々な種類の絵図や地図が刊行されていた、という点だけはまちがいのない事実である。江戸時代の出版技術は、かなり高かったのである。表記の違いは製作者側の認証の示すところである、と考えている。同時に、表記の違いは、人々にとっての、それら「非人」に対する認証の混乱を示すものである、と考える。



2、地図とその時代

 次に、本地図集に収録されているもののうち、特長的な地図について触れていくことにしたい(図1参照)。
 まず「大坂古図」のうち「石山古城図」をとりあげて検討したい。大坂は堀り割りが発達し大街であるが、石山本願寺のあった頃から、こうした街の形はできあがっていた様である。
 その堀り割りにつながる大和川と北河内川、近江川の合流する地点の丘の上に「石山御堂」があるが、ここが石山本願寺のあった所である。地図には「当時篭城門徒四万人餘」と書き込みがある。石山御堂の北側の所には「天王寺跡」という記載もある。
 石山御堂と「渡辺橋 川幅二百六十間」と記された対岸に「佐々成政本陣」とその後ろには「織田信長本陣」が書き込まれている。信長の本陣があったのは天満山で、当時は山があったようだ。信長本陣のすぐ西側には、「本庄某川ヲ守ル処裏切シテ石山ヘ入」との書き込みもあり、合戦中の緊張感が伝わってくる。
 石山本願寺を攻める側の勢力は、主に石山御堂の西側一帯に本陣を布き、堀江橋筋の堀り割りより東側一帯は本願寺側の勢力が展開していた。四天王寺の西側には「此処石山方忍者ヲ置」という記載があり、合戦に際して活躍していた忍者の存在もあったことが確認できるのである。
 当時の忍者は、主に敵情偵察やニセ情報を流して敵を混乱させたりする任務にあたっていた。主力部隊は門徒宗の中の根来衆が雑賀衆であったろう。その雑賀衆は高津に陣を構えていた。雑賀衆の陣のすぐ東側には「七不思議栴檀」の書き込みと絵が描かれている。この栴檀は近世の絵図にも書き込まれているから、かなり後まで自生していたもの、と推測される。
 こうした両軍の陣と陣の間をぬうように、「石川方早鐘シキバ」が、石山本願寺をとり囲む形で置かれている。情報伝達には狼煙や鐘が使われていたが、石山合戦でも使用されていたことが、この図からもわかるのである。当時は狼煙の色を変えて危急の用件を伝えたり、鐘の撞き方で何があったかを知らせたのであった。
 合戦の緊迫感が伝わってくる記載はまだある。
 現在は在日韓国・朝鮮人四万人以上が暮らす猪飼野は、百済川筋の西側一帯に記載があるが、そこには「松永陣代千四百人」の記載とともに「橋ヲ引ク」とある。さらにその西側には「大和勢五百人」(これは門徒衆であろう)とあり、その陣の正面にあった「猪飼ハシ」は、「橋ヲ引ク」と書き込まれている。要するに、合戦に備えて石山方が橋をこわして落とした、ということなのだろう。織田方に、石山本願寺まで一挙に攻めこまれないためにとった作戦のひとつ、といってよい。猪飼野は、大阪環状線・鶴橋駅周辺から東側一帯であるが、現在はこの地名は正式には使われていない。
 ところで、「石山古地図」には、すでに部落問題に関する記載があらわれている。
 現在の大阪湾になるが、石山本願寺からみると南西の方向になる。その湾内に「寺嶋」があり、「石山方ノ砦」が記載されている。その説明のための書き込みと考えられるのだが、「エタガ崎砦ト云」という記載がある。
 近世の絵図や地図は縮尺はかなりいいかげんだから、断定はできないが、ここは近世には「渡辺村」と呼ばれてたかわた村と重なり合う地ではないか、と考えられる。渡辺村は近世には天領であって、独自の年寄をもっていたほか、身分は大坂町奉行の直接支配をうけた。現在地へ移ってくる以前の村の記録と思われる。
 じつは、渡辺村は村の成立当初から現在地にあったのではない。
 「天正十三年町ヲ分ル 大坂分町地図 慶応十七年著図」(本地図集に収録)には、「渡辺村 天正年中渡辺橋ノ南ヨリ此ニ遷ル 穢多村也」との記載がある。
 「中旧 大坂三郷地図」(宝暦七年――本地図集に収録)にも、「昔シ天神橋ノ南 渡辺ノ地ニアリ 文禄年此ニ引遷ル 其ノ跡町トナル」と渡辺村は解説がなされている。
 ここに記されている天神橋と渡辺橋というのは、大坂城のすぐ近くにあって、「官上近世大坂地図」(宝暦二年――本地図集に収録)には、「渡辺橋又ハ大江橋又ハ天神橋」との書き込みがあり、同一の橋であったことがわかる。こうした橋の名前ひとつとってみても、近世の絵図や地図を一枚だけ見ていては、理解できないのである。いろんな時期の物を重ねて見ると、いろんな事実がわかるのである。本地図集の特長のひとつもこの点にある。
 実際、渡辺村の前身は応仁の乱ののち、淀川のほとりに散所村がつくられて、坐摩(ざま)神社に隷属して皮革生業や神社の清掃などの仕事に携わっていた餌取があった、といわれている。そして石山本願寺がつくられると、寺に奉仕する河原者もみられるようになった。
  その後、一五八三(天正一一)年に大坂城が築城されると、渡辺村は城下町となり、坐摩神社の大半が没収されてしまうのであった。すると、神社に奉仕していた河原者達は天満、博労、木津、船場などに分散してしまい、坐摩神社との関係はうすくなった。
 しかし、徳川幕府が成立すると、それらの河原者達はまず南渡辺の地へ集められ、さらに元和年間(一六一五~二三年)に至り、西成郡下難波村領に移動させられ、一七○一(元禄一四)年に至り、現在地へと移動させられて定着することとなった。渡辺村は、戦前には「西浜」と呼ばれ、「全国一の大部落」といわれるほどであった。
 渡辺村の元々は坐摩神社との関係から始まるのは、まずまちがいないといってよい。その坐摩神社は、石山本願寺やその跡に築城された大坂城とは、非常に近い所にあった。先に記した渡辺村の書き込みは、こうした移動の事実を裏づけるものである。ただし、移動してきた年代の記述は「天正年中」(一五七三~九一)、「文禄年中」(一五九二~九五)と若干の違いがある。
 だが、元々は別の所にあって、移動させられて最終的に現在地へ移ってきたのは、まちがいない所である。「部落」は移動するのである。

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