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商品コード: ISBN978-4-7603-0469-1 C3800 \20000E

シーボルト収集図書目録

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シーボルト収集図書目録
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト 編

 フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796年2月17日 - 1866年10月18日)は、ドイツ人の医師・博物学者。
 神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルク(現在のバイエルン州北西部)に生まれる。シーボルト家は祖父、父ともにヴュルツブルク大学の医師であり、医学界の名門家族であった。父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授のヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルト、母はマリア・アポロニア・ヨゼファ。シーボルトという姓の前にフォン (von) が添えられている。これは貴族階級の出身であることを意味している。シーボルト姓を名乗る親族の多くも中部ドイツの貴族階級で、学才に秀で、医者や医学教授を多数輩出している。
 父親のヨハン・ゲオルク・クリストフは31歳で死去した。妻マリア・アポロニア・ヨゼファとの間に2男1女をもうけるが、長男と長女は幼年に死去し、次男のフィリップだけが成人した。父の死は彼のは1歳1ヶ月の時である。以後、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられる。フィリップが9歳になった時に、母はヴュルツブルクからマイン川を半時間ほど遡ったハイディングフェルトに移住し、1810年、ヴュルツブルクの高校に入学するまでこの地で育った。12歳になると、地元の司祭となった叔父から個人授業を受ける他に、教会のラテン語学校にも通った。1815年、ヴュルツブルク大学の哲学科に入学するが、家族や親族の意見に従い、医学を学ぶことになった。大学在学中は解剖学の教授のイグナーツ・デリンガー家に寄寓した。医学を始めとして、動物學、植物學、地理學などを学んだ。デリンガー教授宅に寄宿し、植物学者のネース・フォン・エーゼンベック教授の知遇を得て、彼は植物學に導かれることになった。ヴュルツベルク大学は、過去の思弁的医学から、臨床診療を基本とした、近代医学への移行を目指していた。シーボルトの恩師も皆医学の学位を有し、植物学にも強い関心をもっていた。エーゼンベック教授はコケ植物、菌類、ノギク属植物などについて考究し、「植物学便覧」という著作を叙述している
 1820年、この大學を卒業したシーボルトは、ハイディングスフェルトで開業した。しかし、その地位に満足することなく、東洋学研究を志していたシーボルトは、1822年、オランダのハーグへ赴き、国王ウィレム1世の侍医の斡旋を受け、7月、オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となった。近年の調査で、「バタヴィアのオランダ領インドシナ政庁総督に宛てたシーボルトの書簡」「江戸城本丸詳細図面」「樺太測量図」「武器・武具解説図」などの資料も発見され、単なる医師・学術研究者ではなかったと推測されている。
 1822年9月、ロッテルダムから出航し、喜望峰を経由して、1823年3月、インドネシアに到着した。その地で、バタヴィア近郊のヴェルテフレーデンの第五砲兵連隊付軍医として配属され、東インド自然科学調査官も兼任した。滞在中、オランダ領東インド総督に日本研究の希望を述べ、日本への渡航を認められた。1823年6月末、バタヴィアを出航して、同年8月に来日し、長崎の出島のオランダ商館医に就任した。エンゲルベルト・ケンペル、カール・ツンベルグ、シーボルトの3人を「出島三学者」と呼んでいる。1823年秋、「日本博物誌」を脱稿した。
 出島内で医療施設を開業の後、1824年、出島の外に鳴滝塾を開設し、西洋医学の教育を行い、日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。塾生の中では、高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英、伊藤圭介などが知られている。塾生は、後に医者や学者として活躍した。1825年、出島に植物園を建設し、日本を退去するまで、1400種以上の植物を栽培した。また、日本茶の種子をジャワに送って、同島で茶栽培が開始された。
 1826年4月、オランダ商館長の江戸参府に随行し、道中、日本の自然、地理、植生、気候、天文などを調査・研究することに没頭した。1826年、将軍徳川家斉に謁見した。江戸においても、蝦夷地や樺太など北方探検を行った最上徳内や高橋景保(通称、高橋作左衛門)などと交友する機会をもった。最上徳内からは北方の地図を贈られた。高橋景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与え、見返りとして、最新の日本地図が贈られた。
 1828年、帰国に際して、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出した。一部は日本の海浜に流れ着き、その積荷の中に、幕府禁制の日本地図があったことから、問題になり、それの返却を要請された。しかし、その要求を拒否したため、出国停止処分を受け、後に国外追放処分となった。いわゆる「シーボルト事件」である。当初の予定では、帰国してから3年後に再来日する予定であった。
 1830年、オランダに帰着した。日本で収集した文学的・民族学的コレクション5,000点以上の他に、哺乳動物標本200種類、鳥類標本900種類、魚類標本750種類、爬虫類標本170種類、無脊椎動物標本5,000種類以上、植物2,000種、植物標本12,000点を持ち帰った。1832年にライデンで、コレクションを展示した「日本博物館」を開設した。オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成版として、全7巻の「日本」(「日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集」)を随時刊行した。同書の中で、「間宮海峡」を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。
 日本学の祖として名声が高まり、ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してライデンに留まった。一方で日本の開国を促すために運動し、1844年、オランダ国王ウィレム2世の親書を起草し、1853年、アメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本の資料を提供し、早急な軍事的対処を行わないことを要請した。1857年、ロシア皇帝ニコライ1世に招待され、日本国宛の書簡を起草するが、クリミア戦争により日露交渉は中断した。
 1854年、日本は開国し、1858年、日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除された。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉を担う幕府顧問となった。後に、幕府から江戸退去を命じられ、幕府外交顧問・学術教授の職も解任された。1862年5月、多数の収集品とともに長崎から帰国した。
 1866年10月18日、ミュンヘンで風邪をこじらせ、敗血症を併発して死去した。享年70歳没墓は石造りの仏塔で、旧ミュンヘン南墓地 (Alter Munchner Sudfriedhof) に置かれてある。
 シーボルトは当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝えると同時に、生物学、民俗学、地理学など多岐にわたる事物を、日本で収集、オランダへ発送した。シーボルト事件で追放された際にも、多くの標本などを持ち帰った。この資料の一部はシーボルト自身により、ヨーロッパ諸国やロシアの博物館や宮廷に売却され、シーボルトの研究生活の継続を、経済的に支えた。これらの資料は、ライデン、ミュンヘン、ウィーン、ペテルスルクに残されている。また、絵師だった川原慶賀に日本の生物や風俗の絵図を多数描かせ、薬剤師として来日していたハインリヒ・ビュルゲルには、自身が追放された後も同様の調査を続行するよう依頼した。
 生物標本、またはそれに付随した絵図は、当時ほとんど知られていなかった日本の生物について重要な研究資料となり、模式標本となったものも多い。これらの多くはライデン自然史博物館に保管されている。
 植物の押葉標本は12,000点、それらを基にして、ヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニと共著で「日本植物誌」を刊行した。その中で記載した種は2300種にものぼる。植物の学名で命名者がSieb. et Zucc.とあるのは、彼らが命名し、現在も名前が使われている種であることを示している。アジサイなどヨーロッパの園芸界に広まった種もある。
 動物標本は、当時のライデン自然史博物館の動物学者だったテミンク(初代館長)、シュレーゲル、デ・ハーンらによって研究され、「日本動物誌」として刊行された。日本では馴染み深いスズキ、マダイ、イセエビなども、「日本動物誌」で、初めて学名が確定された。
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