商品コード: ISBN978-4-7603-0397-7 C3321 \50000E

第5巻 日本科学技術古典籍資料/測量篇[1]

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第5巻 日本科学技術古典籍資料/測量篇[1]

量地図説(上、下)
規矩元法町見辨疑(一~五)
規矩元法町間繪目録
規矩術鈔(一~九)
規矩元法(仁、 義、 禮、智、信)
量地指南(前編: 上、中、下; 後編: 一~五)

解 説
 今回は江戸時代の測量術に関する名著六篇を取り上げた。いずれも巷間に流布された資料である。十七世紀から十八世紀にかけて隆盛を極めた和算の研究が、十九世紀の幕末期にかけて、応用数学としての測量技術の開発に大きな影響を与えたことが窺われる内容の資料が多い。本来は数学の文献としても遜色のない内容であるが、この巻においては、「江戸時代の測量技術」の総体を分析するために、あえて「測量篇」として上梓した次第である。また、これらの資料は版本がほとんどで、漢字には読みが附されているので、あえて解読を実行しなかった。原本はいずれも「東北大学附属図書館」所蔵である。
(一)量地圖説[狩七-二一二一七-二-九六二一]
 幕末期に記された測量の啓蒙書である。本書の成立は嘉永五(一八五二)年で、刊本の形態である。豊富で精密な図版を活用して、測量に用いる器具、測量方法の基本を丁寧に記述した良書と言えよう。「上之巻」においては、測量の意義を述べ、次に、正方儀、水縄、野帳、仮標、曲尺、界針、間竿などの木製量地測定器具の形態、解体図、使用方法などが、図を活用して懇切丁寧に記述されている。「下之巻」はその応用篇と言えよう。平地の遠近や広狭、山岳の高低、渓谷の浅深、道路や河川の屈曲及び高低など、大地の曲線部を測定する全方儀の図説にほとんどのページが割かれている。江戸時代の主要な産業であった農業の従事者に対して平易に書かれた、実に明解な資料と言えよう。
 作者、編者、画家として、「長谷川善左衛門弘 閲」「甲斐駒蔵廣永 編」「小野友五郎廣胖 校」「葛飾為斎 画」と記されている。以下、これら四人の大家について、彼らの足跡を辿ってみることにする。
①長谷川善左衛門弘(はせがわぜんざえもんひろし): 江戸時代末期に活躍した数学者、和算家として著名な、長谷川 寛(はせがわ ひろし)の養子嗣である。養父にあたる長谷川寛の通称は善左衛門、藤次郎、字は子栗、栗甫、号は西?、極翁である。天明二(一七八二)年 に生を享け、天保九(一八三八)年十一月二十日に、天寿を全うしている。享年五十七歳。江戸出身で、日下誠に教えを享け、文政十三(一八三○)年に刊行した「算法新書」(全五巻,長谷川寛 閲,千葉胤秀 編,山口和 序文)の校閲者として知られている。長谷川数学道場の創始者で、多くの数学者を養成し、「算変法」「極形術」「変形術」を考案し、数学の普及と発展に努めた。そして、彼の数学術の精髄を盛り込んだ「算法極形指南」「算法極形指南」の刊行にも与っている。長谷川寛は生涯、子供をもうけることができず、弟子の佐藤篤信を養子として迎え、彼に数学を伝授し、長谷川弘と名乗らせた。彼は天保十(一八三九)年に長谷川数学道場の後継者となった。
 長谷川弘は文化七(一八一○)年に陸前栗原郡佐沼大畑に、農家の子息として生まれ、明治二十(一八八七)年十月七日に逝去している。幼名は菊三郎、名は、後に弘と改め、字を子道、通称を秋三郎、卯三郎、十左衛門、善左衛門(二世)と名乗った。?渓、北川と号した。幼少より数理の学に才能を発揮し、最初は、一関藩の千葉胤秀に数学を学び、後の文政十一(一八二八)年に、長谷川数学道場に入門した。長谷川派の統率者に就任以降は、養父の長谷川寛に倣って、優れた数学の啓蒙書の刊行を手助けし、多くの数学者の育成に寄与した。
②甲斐駒蔵廣永(かいこまぞうひろなが): 文化九(一八一二)年に生まれ、文久元(一八六一)年に逝去している。長谷川派の和算家で、常陸笠間藩出身の数学者。江戸で、長谷川寛及び長谷川弘父子に和算を学んだ。
③小野友五郎廣胖(おのともごろうひろとき): 文化十四(一八一七)年に、笠間藩士の小守宗次の三男として生まれ、同藩の小野柳五郎の養子となり、家督を継ぎ、明治三十一(一八九八)年に逝去している。江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した数学者で、幕臣にも列し、江戸時代から明治時代にかけて、日本海軍の創設を主導した人物として名高い。諱は広胖(ひろとき)。和算家としては小野廣胖、洋算家としては小野友五郎と呼ばれることが多い。
 笠間藩の算学者甲斐駒蔵に入門し、和算を学んだ。後に、江戸で長谷川弘に入門して、さらに算学を修める。嘉永五(一八五二)年、師の甲斐駒蔵とともに、この「量地図説」を公刊した。同年、幕府天文方に出仕し、江川英龍に砲術・軍学・オランダ語を学び、オランダの航海術書を翻訳した「渡海新編」を幕府に提出した。
 安政二(一八五五)年八月、測量術・航海術・オランダ語の精通した能力を評価され、老中阿部正弘からの直命により、長崎に設置された幕府の海軍伝習所に入学した。その後、江戸へ戻り、築地の軍艦操練所教授方となる。万延元(一八六○)年、日米修好通商条約批准書交換のための使節派遣が決定され、彼らの護衛および航海訓練のために、軍艦奉行木村芥舟を提督とする咸臨丸も派遣されることになり、小野も、海軍伝習所の同窓生であった咸臨丸艦長の勝麟太郎(勝海舟)を補佐する測量方兼運用方(航海長)となり、アメリカ合衆国へ渡航した。帰国後の文久元(一八六一)年七月、軍艦頭取となり、正式に幕臣となる。異国船防備のため江戸湾測量を行う。
 元治元(一八六四)年六月、勘定吟味役に昇進し、同年七月二日には、「金銀吹替并吹立御用」を兼務した。同年十一月、幕府主宰の横須賀製鉄所設立に関与し、横須賀周辺の造船所候補地の実地調査に赴く。同年の第一次長州征伐および翌々年の第二次長州征伐で幕府陸軍動員にあたり、動員・補給計画に携わる。
 慶応三(一八六七)年十月に、勘定頭取を経て、勘定奉行並に昇進し、諸大夫となり、官位として内膳正に補任された。同時に名を広胖と改める。慶応四(一八六八)年、禁固刑を受けるが、後に出獄を赦される。
 数学教育にも熱心で、明治六(一八七三)年には学制発布で廃止された珠算の復活を建言して実現に至らしめた。その一方で、西洋式数学の普及にも努めた。明治二十六(一八九三)年には、尋常小学校用の教科書「新撰洋算初歩」を編纂している。
④葛飾 為斎(かつしか いさい): 文政四(一八二一)年に生まれ、 明治十三(一八八○)年六月に、その生涯の幕を閉じている。江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、葛飾北斎の門人。姓は清水、俗称は宗次。酔桜軒、酔桜楼などと号す。錦絵を初めとして版本の挿絵、肉筆浮世絵なども手がけている。画風は葛飾北斎によく似ている。この「量地図説」に掲載された挿絵も精密で、木製の測量器具や測量風景なども丁寧に描きこまれていて、有用な内容となっている。他に、「為斎画式」「花鳥山水図式」「日蓮上人一代図会」「雷神図」「玉巵弾琴図屏風」などの作品が知られているる。
(二)規矩元法町見辨疑[狩七-二一一四五-五-九六○七]
 ここで、測量に関係する用語を整理してみよう。「大漢和辞典」によれば、この資料の表題に見られる「規」「矩」「町見」は以下のように定義される。「規」とはぶんまわしのことで、円を描くためのコンパスをさす。「矩」はさしがねの意味で、かぎ型の定規のことである。「規矩」で、物を測定する道具のことをさす。「町見術」とは、測量技術の江戸時代の呼称で、オランダ流、清水流などの流派が知られている。本書は清水貞徳(一六四五~一七一七)が始めた清水流の町見術(測量術)の解説書で、清水流で使われていた用語の解説が主となっている。ここで言う測量術とは、水平に置いた板の上に紙を置き、そこに直接、地形の縮図を写し取る「平板測量」のことであると言われている。
 清水貞徳(しみず さだのり)は江戸時代中期に活躍した測量家で、清水流測量術の開祖である。彼は、通称を豊吉と称し、津軽藩に仕えて、津軽地方の測量に従事し、東奥州の地図を作成した。彼は、金沢勘右衛門に西洋式測量術を学び、天和二(一六八二)年、師とともに江戸へ出て、津軽藩の勘定人として登用され、藩領である弘前一円の実測絵図を作成した。残された「清水流規矩距術印可」によれば、彼の測量術は、蘭人カスパルが樋口権右衛門に伝授し、金沢刑部左衛門、金沢清左衛門、金沢勘右衛門そして清水貞徳、彼の門弟などに伝えられたと言われる。
 元禄元(一六八八)年には、これまでの規矩術を整理して、清水流といわれる測量術を確立した。「規矩元法別伝」(一七○九)に掲載されている測量方法は、コンパス(デバイダー)、見盤、分度器、象限儀、間竿、間縄、水準器などの機器を使用し、直角は三、四、五の法を用いた小地域の地図作成技術である。これが前述の「平板測量」のことである。他の著書には、オランダ流町見術の基本的な内容を備えた「図法三部集」(一六八六)、「元禄四年印可巻」及び「元禄六年印可巻」などがある。これらの資料は、正確には、清水貞徳の著書ではなく、門弟らが筆録・整理したものと推定される。
 江戸幕府は十七世紀から十八世紀にかけて、三回にわたって国絵図の製作を全国の大名に命じ、それぞれ「正保国絵図」「元禄国絵図」「享保国絵図」が完成された。そのために、測量術に対する需要が増え、清水貞徳や石黒信由のような測量家が輩出し、彼らの技術が全国に普及する契機を、国絵図製作事業は創出したとも言えよう。
 ここで述べられている石黒 信由(いしくろ のぶよし、一七六○~一八三七)は、越中国射水郡高木村出身の和算家、測量家。越中国・能登国・加賀国の測量を実行し製作された「加越能三州郡分略絵図」は、その精度において、現在の地図とほとんど変らない内容である。
 著者は島田 道桓(しまだ どうかん)。この資料では、著者の師匠で、かつ、校閲者でもある西川正休による享保十九(一七三四)年の序文が掲載されている。版本。
(三)規矩元法 町間繪目録 全[林文庫 二五三七]
 手書本で、二十三点の絵と図を活用して、三角測量や平板測量の基本を解りやすく解説した概説書。「国書総目録」においてもこの資料の存在は確認されなかった。内容を点検しても、「空眼」「分数」「度量」などの用語解説から始まって、後半においては、山岳の高低、地形の高下などの応用測量などの基本が懇切丁寧に記述されている。最後に国絵図作成の基本的測量方法も解説されていて、興味深い内容である。「測量は漢土に始まる」の記事から推し量るに、西洋測量術から始まった「清水流」とは異なる手法を用いた測量技術についても検討する必要があろう。最後の丁に測量道具が解説されていて、「根發は鉄をもって作る」と記述されていることを類推すると、金属製の器具が開発されていることを窺わせる表現である。後述の「(三)規矩元法」の第一巻(仁巻)と同一の内容で、おそらく、何かの都合で、この巻が単独で刊行されたのであろう。清水流の測量技術資料の一冊で、おそらく清水流の門下生によって書写された書物であろう。文政四(一八二一)年九月の年紀が記されている。
(四)規矩術鈔[狩七-二一一五○-九-二○九九八]
 「規矩術(規矩法)」とは、木造建築物を作り出す大工の加工技術の一つである。木造建築物の仕口や継手、その他の接合部分など、部材の形状全般を「規」および「矩」によって作り出す手法のことをさす。この技術は、古代にまでさかのぼるとされ、当初は、経験及び伝承による職人の間の秘伝であった。江戸時代に入ると、和算などを活用して理論化・体系化された。清水流の町見術とは、この規矩術を応用した測量術のことで、この伝統的な手法を用いて発展していったことが推定される。この資料は表題とは異なり、建造物製作の技術の解説書ではなく、平地の距離、山岳や城の高低、河川の面積などを測量する技術全般を、豊富な図版を活用して概説している資料であることに、大きな特色がある。本資料は全九冊で構成されていて、各分冊に副題が記載されているので列挙してみることにする。

*規矩術鈔 一(規矩元法目録):冒頭に「規矩元法町見」と明記されていて、「町見術」についての解説書であることを記述。
*規矩術鈔 二(規矩元法圖觧):空眼、分数、度量、見込、筋遠左右進退、前後進退、間数表示、隔沼河開、極中不中、三四五                之矩、縄張、磁石、規矩元器、城圖製作方法、國圖製作方法、遠里、舩路の測量方法、測量                 道具などについて図解。
*規矩術鈔 三(規矩元法別傳圖觧):山岳間の距離・高度の測定、谷底の幅と形、山上及び谷底に生育する樹木の測定、分度                器・根發・磁石の使用方法、天守櫓の測定などを詳細に叙述。
*規矩術鈔 四(規矩元法秘訣):目的竿、送竿、弧径、分間法、山の地幅の測定方法などを記述。 
*規矩術鈔 五(國圖要法目録):国絵図の作成に必要な道具、作業工程など五十八項目を提示。
*規矩術鈔 六(國圖要法):国絵図作成のために、地図の表現方法、測量用具の使用方法、基本的な作業方法について詳細に 述べてある。 
*規矩術鈔 七(集要私録):図は掲載されていない。測量の用語や器具についての簡単な解説が述べられている。
*規矩術鈔 八(秘術圖觧):「円知平町」「左右平町」「片極」「前面要用」「前後進退真術」「直縄屈伸」「折紙」「各写之矩」「見 盤遠里」「見盤大成」「進退」「沼河真術」など、清水流測量術の秘伝を公開。 
*規矩術鈔 九(帰一本術、應變、極秘、三箇所大事):「帰一本術」「?先」「?跡」「様脚」「様程」「水月」「白浪」「方鏡」「猿                          喉」「高下」「必中」「短目」「天口」「開扇」「地口」「忍磁石」「杖磁石」 「密銘」「筆扇」「草結」「大真矩」など、清水流一派で考案された極秘の 用語、測量器具、測量方法などを、図を用いて詳細に記述してある。

 清水貞徳(一六四五~一七一七)の著作で明和四(一七六七)年成立の手書本である。清水貞徳の死後に公にされているので、彼の門弟たちの手になる写本と推定される。なお、この資料は「東北大学附属図書館」以外では見つけることができなかった。他の機関においてもこの鈔本の類書が見いだされているが、編者はそれらの資料を閲覧していないので、意見を述べることができない。ただ、この資料は外題と内題の巻数が一致しない部分が見られるが、内容としては前述の目次が正鵠を得ていると推定されるので、異本と比較検討するためには、この目録を参照されたい。また、国絵図製作について詳細な記述があるのが大きな特色で、この国家的な地図製作事業が、測量技術の発展に大きな役割をはたしたことが窺われる。
(五)規矩元法[岡本文庫 写八七四-一七七六二-五]
 清水流の測量技術書のひとつである。編者は江戸時代中期に活躍した測量家の河原貞頼(一六六五~一七四三)である。河原貞頼は、信州松本城主戸田光永の家臣で、元禄四(一六九一)年から元禄十年(一六九七)年にかけて、測量術を清水貞徳に学んだと推定される。
 河原貞頼は、美濃加茂に在住し、元禄年間の「日本国絵図改正」に際して、城主の命を受けて、「美濃国絵図」を製作した。その時に清水流測量術が活用されたと言われている。この「元禄国絵図」は、元禄十二(一六九九)年に完成している。その後、河原貞頼は藩主の移封に伴って移動し、享保二(一七一七)年に、松本藩へと戻っている。松本藩で測量術を教授するにあたり、清水流測量術を整理したのがこの「規矩元法」であり、これ以降、松本藩では、彼の意志を継ぐ測量術が代々伝達されていった。清水流測量術は、口伝として失われることがなく、この「規矩元法」の公刊によって後世に伝えられ、後の「国絵図製作」や「測量技術の改善」に大きな役割を果たしたと考えられている。。
 この資料は写本で、全体が五冊で構成され、それぞれに副題が記されている。

*規矩元法 一[仁](町見繪目録):空眼、分数、度量、見込、平町、筋遠左右進退、前後進退、不動而知遠、隔沼河開、極中 不中、寸尺用捨、?法用捨、三四五之矩、直極、知谷之深、求地形之高下、望間、間棹、座 而地取、直縄張、知前面之廣、二度目之盤、陰之目的、磁石の使用方法、仰角と俯角を測定 する規矩元器、城之圖仕様、國之圖仕様、北極、遠里積、舩路積、測量道具などについて 図解。「規矩術鈔 二(規矩元法圖觧)」「規矩術鈔 三(規矩元法別傳圖觧)」の内容の要 約である。
*規矩元法 二[義](別傳記):図は掲載されていない。旧来使用されてきた測量器具五品など、基本的な事項を解説。末尾に               「別傳は全部で三十あり、そのうち清水貞徳氏直伝の五箇条を遵守する」ことを明記している。 「享保六(一七二一)年辛牛春正月」の年紀と、編者の河原貞頼の名前が記されている。
*規矩元法 三[禮](別傳記圖録):豊富な図版を使用して、根發・分度器・規矩元器・磁石の使用方法、山岳間の距離・高度、 谷底の幅と形、天守櫓、山上及び谷底に生育する樹木の測定方法などを詳細に叙述。「規矩 術鈔 三(規矩元法別傳圖觧)」の内容を解りやすく説明している。「
*規矩元法 四[智](國圖要録):図は掲載されていない。国絵図の作成に必要な事項を簡潔に説明。「享保十二(一七二七)年          丁未春三月」の年紀と、編者の河原貞頼の名前が遺されている。原稿の末尾には、河原貞頼 の玄孫、河原貞直が三原康匡に宛てた、文政二(一八一九)年の言辞も記されている。規矩術                鈔 六(國圖要法)」の内容とほぼ同一。
*規矩元法 五[信](印可條):「円知平町」「左右平町」「知國中之高低」「山之高知」「山之厚知」「用山表裏」「山禮書法」「弧 径」「前面用要」「進退而知高」「地取之真術」「前後真術」「直縄真術」「見盤城圖」「見盤國圖」 「四方一開之術」「弧天弦之働」「圓冩之矩」「角冩折紙」「片極」「見盤大成」「顯圖」などの印可 二十二條に加えて、「?先」「?跡」「天口」「地口」「方鏡」「大真矩」「目的一理」「製覧跡」「小 手巻」「白浪」「草結」「圓術」「珵用之辨」「圓積」「平印積」「弧天弦」「玉切」「立卵積」「出火 指方間」などの清水流の秘術を簡潔に述べている。「享保十三(一七二八)年戌申春二月」の年 紀と、編者の河原貞頼の名前が書かれている。「規矩術鈔 八(秘術圖觧)」及び「規矩術鈔  九(帰一本術、應變、極秘、三箇所大事)の簡潔な要約版と言えよう。

 内容も前述の「(四)規矩術鈔」と遜色がなく、初心者向けの「清水流測量術の簡易要約版」という趣である。前掲の「(三)規矩元法 町間繪目録 全」は、この資料の第一巻(仁巻)に相当する。
(六)量地指南[林文庫 八八-三;林文庫 一○七-五]
編述者は、江戸時代中期に活躍した兵法家及び測量家の村井昌弘。村井昌弘は元禄六(一六九三)年に生まれ、宝暦九(一七五九)年に、六十七歳で逝去している。通称は大輔。蘇道、蘇道子と号した。伊勢の安濃津で兵学塾の神武館を開設し、後に江戸で島原侯に仕え、祖父の村井昌躬が小林義信から伝授された測量術の資料を整理し、享保十七(一七三二)年に公刊した書籍が、この「量地指南前編」(三巻三冊)である。この「量地指南前編」に続く「量地指南後編」は、宝暦四(一七五四)年に出版されている。いずれも版本で、江戸時代の測量技術を図解した名著として、後世にも名を残している。「量地指南前編」に続いて二十二年後に、「量地指南後編」が刊行された理由は定かではない。ただ、「量地指南後編」においても、清水流測量術の精髄を編纂した「規矩術鈔」「規矩術鈔」などの原典に見られる「折紙」「地口」「様脚」「?先」などの用語が図説されていることを考えると、「新しい測量術を考案するために記された資料」とする見解には、いささかの無理があると思われる。この享保時代までの「日本の測量技術の発達の歴史」と「測量という概念」の解析を試みた、一般的な啓蒙書としての定義が的を得ていよう。おそらく「既存に刊行された測量に関する測量に関連した資料の集大成版」であることに、異議をはさむ人はいないであろう。
 江戸幕府の開闢以来、農本主義を国家の基本政策とした為政者は、効果的にかつ無駄がなく租税を取得するための方策として、農地面積を正確に確定する「検地」は重要であった。その精密な「検地」を可能にしたのが、農地面積を画定する測量術であった。この視点から考えれば、旅行などの日常生活に必要であり、地図作成、建造物の構築に不可欠な測量技術は、普及させる必然性が大いにあったと推定される。 この稿を終えるにあたって、貴重な資料の撮影・掲載許可をいただいた東北大学附属図書館のスタッフの方々に感謝の念を捧げる次第である。
  
  二○一五年三月二十五日
編者識
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科学技術古典籍資料シリーズの特色

(l)近世に創作された日本の科學・技術に関係する貴重な古典籍を網羅---貴重な資料が全国各地に散在しているために、日本の科學・技術に関連する第一次資料を網羅することはできなかった。今回はさまざまな資料を捜索・掲載し、日本の科學・技術の歴史全体を俯瞰できる内容とした。

(2)充実した内容と斬新な構成----初學者にも理解できるように、古代から近世末期までを俯瞰できる各分野ごとの科學・技術史年表、基本的な文献の解題目録、完璧な索引を作成し、内容を豊富化した。既存のさまざまな概念にとらわれずに、事実としての日本の科學・技術の歴史を明らかにすることを重視している。古代・中世に、中国より渡来した科學・技術は、江戸時代に独自の発展をとげ、この時代の中期以降に西洋の科學文化に接触し、さらなる歴史を形成した。本集成は、この発展の歴史を辿りながら、現代以降の科學・技術のさらなる発達に寄与できうる内容構成とした。

(3)あらゆる學問分野で活用できる資料集成----この資料のみで、日本の科學・技術史を俯瞰できるのが大きな特色。資料篇、文献解題篇、年表篇、索引篇のいずれからも読むことが可能で、さらなる研究に活用するために便利な資料。日本科學史、日本歴史の研究者のみならず、作家、ジャーナリスト、社会科學・自然科學分野の研究者なども活用できる、体系的な資料集成。
[当初この日本科学技術古典籍資料シリーズは、「日本科學技術古典籍資料集成」として、独自のシリーズで刊行の予定でしたが、古代及び中世の日本独自の文献を所蔵している機関が少なく、また、所蔵していたとしても、複製が困難なために、新たなシリーズとして発行することを断念致しました。さらに、江戸時代に科學技術研究が最盛期を迎えたことと、この時代に発行された資料がほとんどであることを勘案して、「近世歴史資料集成」シリーズに組み入れることにした次第です。深くお佗び致します。]

各巻本体価格 50,000円
揃本体価格 550,000円
[内容構成に若干の変更がある時は、ご了解下さい]

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