商品コード: ISBN978-4-7603-0271-0 C3321 \50000E

第4巻 民間治療(16)

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第4巻 民間治療[16]

◎[古方書](田代 三喜 著)
◎藥種相傳書一流
◎家宝日用奇方録(岷 龍斉 著)
◎諸合薬集(三浦 某 著)
◎万聖秘伝妙薬集
◎万病妙薬集(益田 良継 著)
◎妙薬妙術集(吉田 威徳 著)

 この巻は江戸時代において一般大衆を病気から救済するための啓蒙書として編纂された薬方書を、主として掲載した。
(一)救民単方(京都大學附属圖書舘 キ・一二三)
 著者は佐々城 直知(ささき なおとも)。通称は朴庵。省斎と号した。天明五(一七八五)年、陸奥国中津山村に生まれ、文久元(一八六一)年死去。享年七十七歳。京都で醫學を学び、文化十一(一八一四)年、仙台藩の医員に就任し、後に、医学館の附属薬園の責任者となり、婦人科を講じた。天保四(一八三三)年「救荒略」を公表し、飢饉の際に食用に供することのできる草木、つまり、二○三種類の救荒植物を紹介した。この資料は、手書本で、食傷、酒毒、動物毒、動物による咬傷、脱肛、痔、泌尿器の病気、瘡、霍乱、さまざまな腫痛、小児の病気、眼病、湯火傷、婦人科病、難産、腹痛など、一般大衆が日常的にかかりやすいさまざまな病気の治療方法を懇切丁寧に解説した啓蒙書である。前書きに「安政戌午」の年紀があるので、安政五(一八五八)年に上梓されたと推定される。ちなみに、この資料は他の機関では所蔵されていない。
(二)救民妙藥鎌(京都大學附属圖書舘 キ・一二八)
 上巻と下巻を合わせて全部で八丁の印刷本である。刊行年は記載されていない。撰者の?翁老人の略歴なども記載を見いだすことができなかった。この資料もきわめて簡略な手引書といった内容で、印刷本である。記載されてある事項も簡易で、眼病、蟲歯、咽喉病、瘡、腫痛、火傷、耳病、泌尿器病、痔、痛風、霍乱、動物による咬傷、魚類毒、難産、下血、皮膚病、淋病などについて、簡潔に記載している。「国書総目録」によれば、天保九(一八三八)年刊行版が、杏雨書屋の「乾々斎文庫」に架蔵されている。
(三)救民藥方録(京都大學附属圖書舘 キ・一三一)
 前書きに、「文化辛未年正月/奥州須加川/阿部正右衞門正興」の記載があることから推測して、この書が文化八(一八一一)年に発行されたことは疑いをさしはさむ余地がない。この書も啓蒙書の範疇に属する資料で、庶民の緊急の病気に対応して、それらの病気の対処方法を記載している。印刷本であり、人民に訓示をする視点で表現されていることに大きな特色がある。他に、写本が東北大学附属圖書館狩野文庫、文化八年刊行の印刷本が、早稲田大学及び東京国立博物館に所蔵されている。
(四)廣益妙法集(京都大學附属圖書舘 コ・一三八)
 著者は五大菴可一と記載されている。呪術・加持祈祷と生薬を活用した医療行為の両面から病気を治療することを目的とした資料である。現代の治療方法から考察してみれば、奇妙な組み合わせと言わざるをえない。豊富な図版を活用して解説を試みていて、かつ、全国十三箇所の書林で刊行されていることなどを考えあわせると、当時の一大ベスト・セラーであったことを窺わせるに十分な内容と言えよう。他の機関では、香川大学、大橋圖書舘が所有している。
(五)[古方書](國立公文書舘内閣文庫 和二六九八六 一九五・一七)
 表題の[古方書]は、所蔵している國立公文書舘で登録された書名である。巻末に作者の田代三喜の名称と「天文十八己酉(一五四九)年十一月吉日」の年紀の両方が明記されている。田代三喜(たしろ さんき)は、寛正六年四月八日(一四六五年五月三日)に生を享け、天文十三年四月十五日(一五四四年五月六日)に逝去している。享年八十歳。室町・戦国時代を生きた医師で、「医聖」と称された。曲直瀬道三や永田徳本などと並び称される日本医学中興の祖である。三喜と三帰は通称で、名は導道、字を祖範といった。範翁、廻翁、支山人、意足軒、江春庵、日玄、善道、玄淵などと号した。
 田代三喜は、武蔵国越生の古池田代に生まれている。祖先は伊豆国の田代信綱といわれ、その子孫は代々医術を業とし、父の田代兼綱の代になつって武蔵国越生に移った。田代兼綱は上杉持朝に仕えた。十五歳の時、医学を志し、臨済宗妙心寺派の寺に入って僧となり、足利学校で医術を研鑽する。長享元(一四八七)年、二十三歳で明国に渡り、金・元代に活躍した李東垣(李杲)、朱丹渓(朱震亨)の流れを汲む「李朱医学」を学んだ。彼は日本人の留学僧月湖に師事し、明応七(一四九八)年、月湖の著した「全九集」「済陰方」など多くの医学書を携え、日本に帰国した。
 ここで、金・元代の医術について解説を試みてみたい。金・元代には、四大家といわれる劉完素,張従正,李東垣(李杲)、朱丹渓(朱震亨)の他に,張元素,王好古,羅天益など多くの医家が出現した。劉完素と張従正は「寒涼派」と呼ばれ、激しい作用を伴う薬を多用し,李東垣(李杲)と朱丹渓(朱震亨)は、「温補派」と称され、温和な薬を用いることを提唱した。これら、李東垣(李杲)と朱丹渓(朱震亨)の流れを汲む医学を「李朱医学」と呼んだ。田代三喜はこの「李朱医学」を学んで日本に帰国することになった。これらの中國医家が、彼らの治療理論のよりどころとした文献が、「素問」「難経」などである。
 朱丹渓(朱震亨)は、「陽は常に余りあり,陰は常に不足している」という説をたて,「陰を養って火を下す薬剤をよく用いた」ために、「滋陰派」と呼ばれている。李東垣(李杲)は、「元気を損ずると内傷を起こして病気になる」とした「内傷学説」を唱え,「もっとも重要な臓器が脾と胃で,その気を補益することが大切である」として、補剤を多く用いた。彼の一派は「温補派」と呼ばれた。彼には、「脾胃論」「内外傷弁惑論」「蘭室秘蔵」などの著書がある。
 この時代の日本においては,宋代に発達した,発汗剤,吐瀉剤,下剤などを中心にして,体内の老廃物を体外に排出する激烈な処方を主流としていたが,「李朱医学」は、「毒をもって毒を制する」ような手法ではなく、「人体に栄養を補給して、人体の免疫力や抵抗力を高める」医術を採用していた。田代三喜、このような「李朱医学」を学んで、日本で広めることを意図していたのである。 最初は、鎌倉の円覚寺江春庵に居を定め、後に、古河公方の足利成氏の招きにより、永正六(一五○九)年、下総国古河に移り住み、彼の侍医となった。この地で僧籍を離れ、妻を娶った。数年後、武蔵国越生に帰り、生まれ故郷の越生や河越を中心に、関東一円を遊歴して医療活動を行い、多くの庶民を病苦から救り、「医聖」と仰がれた。享禄四(一五三一)年、二十五歳の曲直瀬道三は、田代三喜に会って医学を志す。田代三喜は、曲直瀬道三をよき後継者として指導・育成し、彼が日本に持ち帰った李朱医学の精髄は、愛弟子の曲直瀬道三や曲直瀬玄朔などによって受け継がれ、広められていった。
 彼の著書としては、「医案口訣」「三喜直指篇」「三喜流大成捷術之方編」「十二神方薬伝」「捷術大成印可集」「小児諸病門」「諸食禁好集」「諸薬勢揃薬組之方」「当流和極集」「能毒集」「目伝書伝」「涙墨紙」「老師雑話記」「眼目療治書」「眼療秘方書」などが知られている。
 この著作は、手書で、上巻(「一お」から「五十七う」まで)と下巻(「五十八お」から「百四十六う」まで)の二巻構成である。上巻は九章で、下巻は十八章の、合計二十七章で構成されている。上巻の目次は、①中風、②水腫、③頓死、④上熱下冷、⑤積聚、⑥小児驚風、⑦咳嗽、⑧吐血、⑨毒で、下巻のそれは、①熱證、②冷證、③風證、④疱瘡、⑤瘡疹、⑥赤痢、⑦白痢、⑧黄痢、⑨泄瀉、⑩下血、⑪風雲傷寒、⑫小児泄瀉、⑬瘧、⑭霍乱、⑮虫、⑯産前産後、⑰唐瘡、⑱頭風、である。著者の逝去後の年紀が記されていて、彼の医術治療を余す所なく叙述した作品ではなくて、一般大衆に向けて書かれた啓蒙書の色彩が濃い。引用文献や注記も明記されていないことを考えると、簡易な民間薬方書の範疇に入れられる資料であろう。
(六)救民難病妙藥抄(京都大學附属圖書舘 ナ・八六)
 安永八(一七七九)年刊行。國立國会圖書館(白井光太郎文庫)にも架蔵されている。この資料も人民を病気の苦痛から救済することを意図して執筆された手引書である。
(七)萬聖秘傳妙藥抄[ばんせいひでんみょうやくしょう](京都大學附属圖書舘 マ・五七)
 この資料は他の機関では所蔵されていない。
(八)萬病妙藥集(京都大學附属圖書舘 マ・七五)
 正徳四(一七一四)年の成立で、この資料も他の機関では所蔵されていない。七十項目にわたって、基本的な病気の症状を列挙し、その対応策を解りやすく叙述した啓蒙書。
(九)妙藥秘傳集(京都大學附属圖書舘 ミ・一八)
 この書目は長野県立図書館(温故堂丸山文庫の旧蔵資料)にも所蔵されている。
(十)[増補/救民]妙薬妙術集(京都大學附属圖書舘 ハ・六○、ミ・五二)
 編者は藤本常丸。架蔵されている機関が多く、以下に整理して列挙する。ちなみにこの巻に掲載した資料は安政三(一八五六)年の刊行で、文政六(一八二三)年の年紀で、巻末に藤本常丸の跋文が掲載されている。
*文政六(一八二三)年刊行書籍の写し:米沢市立図書館・興譲館文庫
*文政六(一八二三)年刊行書籍:京都大学農学部図書室、東京大学、杏雨書屋・乾々斎文庫
*嘉永二(一八四九)年刊行書籍:米沢市立図書館・興譲館文庫、東京国立博物館
*安政三(一八五六)年刊行書籍:京都大学
*刊行年不明書籍:長野県立図書館(温故堂丸山文庫の旧蔵資料)、杏雨書屋・乾々斎文庫
別名が「抜苦救民集」「寶因蒔(たからのたねまき)」。いろは順に病気などが列挙されていて、それに対応する処方が懇切丁寧に明記されている。図版も豊富で、一般大衆には解りやすい利便な書物であったことを推定させる。
(十一)藥種相傳書一流(國立公文書舘内閣文庫 三七八二)
 慶長十七(一六一二)年の写本である。原文の内容が平易であるために、あえて解読を行わなかった。著者は明記されていない。手書本。中風、傷寒、痢病、霍乱、脚気、婦人病などさまざまの病気に対して生薬による治療方法を概説。
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