商品コード: ISBN978-4-7603-0262-8 C3321 \50000E

第9巻 救荒(2)

販売価格:
50,000円    (税込:55,000円)

第IX巻 救荒【2】
Volume Ⅸ Japanese Famine Relief Plants and Animals(2)

(2008/平成20年3月刊行)

◎かてもの
◎救荒草品図
◎救荒本草通解(岩崎 常正 著)
◎救荒本草会誌
◎救餓録
◎民間備荒録・解読篇(建部 清庵 著)
◎備荒草木図・解読篇(建部 清庵 著)

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本書の内容に関して

救荒(一)は中国及び日本において上梓された、総論とも言える基本的でかつ定評の高い論攷を掲載したが、今回の救荒(二)の刊行にあたっては、各地において公開された資料を掲載した。また、救荒(一)において、紙数の都合で掲載できなかった「民間備荒録」と「備荒草木図」の解読篇を掲載した。両資料ともに、救荒研究のための原典とも言われているので、ぜひ参照されたい。

書誌解題

(イ)民間備荒録(建部 清庵 著、国立公文書館所蔵、一八二-二六五、一冊)
 最初に原稿として完成したのは、宝暦五(一七五五)年十二月。宝暦五(一七五七)年秋に、奥羽地方を中心に起こった大飢饉に啓発され、その惨状を憂いて、この書を記し、翌、宝暦六(一七五六)年、一関藩に献上した。同藩は写本を数多く作成し、領民に配布した。本書は、日本で最初の本格的な「救荒書」であり、飢饉時に食用とする植物種の選定と栽培の方法、救荒植物の調理方法と解毒の方法、飢饉の時に活用する食物の所蔵方法、飢餓で倒れた人々の救助方法、飢饉時に発生する病気に対しての処置方法、祈祷方法など、飢饉に際しての心得を懇切丁寧に説いた書で、後の時代に作成されたさまざまな「救荒資料」の手本ともなった。
 特に、下巻においては、八十五種類の救荒植物について、味、解毒方法、調理方法などを具体的にかつ平易に叙述している。この資料が書籍の形式で最初に刊行されたのは、それから十六年後の明和八(一七七一)年七月のことであった。この資料も明和八(一七七一)年七月に須原屋から二巻で刊行された。この資料においては合冊されている。
 以後、何回も印行されていて、需要の多さを窺わせる。図は描かれていない。著者の建部清庵は一関藩の藩医の要職にあり、さまざまな本草書、医学書などに接触する機会が多かった。彼は、正徳二(一七一二)年に生まれ、天明二(一七八二)年に没している。ここに掲載したのは「解読篇」で、「原文篇」は「近世歴史資料集成 第四期第十巻(救荒一)」を参照されたい。

(ロ)備荒草木図(建部 清庵 著、国立公文書館所蔵、一九七-八、二冊)
 建部清庵は、明和八(一七七一)年に、「民間備荒録」と対をなす目的でこの「備荒草木図」の草稿を作成したが、果たさずにこの世をさることになった。「民間備荒録」が「理論篇」もしくは「救荒の原理論篇」であるとするならば、この「備荒草木図」は「飢饉に際しての実践的な指針となる応用篇」となるはずであった。それから時代は下って、文化二(一八○五)年、建部清庵の子息にして、杉田玄白の養嗣子となった杉田伯玄も、再度の校訂・印行を試みるが水泡に帰し、ようやく陽の目を見たのは天保四(一八三三)年十二月のことであった。杉田伯玄の弟にあたる杉田立卿がようやく成し遂げたのである。掲載された植物は百四種類で、漢名、和名、可食部、調理方法を要約して記載している。これら百四種類の原図は建部清庵の友人の北郷元喬が作成していたが、そのうちの不完全な作品七十一種類は、専門の絵師などにより修正を施して刊行された。「民間備荒録」の後印本も、この年の三月に刊行された。
 この資料は天保四(一八三三)年刊行の「天真樓藏版」を使用した。ここに掲載したのは「解読篇」で、「原文篇」は「近世歴史資料集成 第四期第十巻(救荒一)」を参照されたい。

(ハ)かてもの 全(国立国会図書館所蔵、二○ニ-四九、一冊)
 原著の初版の成立は享和二(一八○二)年で、米澤の地において書かれている。この当時は、十一代藩主上杉治広侯の治世下にあり、天明四(一七八四)年と天明六(一七八六)年の大飢饉の後に書かれている。資料の末尾に、中條豊前至資と莅戸善政の二人の家老の氏名が記載されていることから推察すると、救荒に備えるために、米澤藩に所属する一般大衆に普く流布ることを目的とした啓蒙書であろう。前半部は、主要な救荒植物がいろは順に八十一種類解説されていて、それらの食用の方法などが簡単に記述されている。絵は掲載されていない。後半は、凶作に際して備えるべき植物・動物などについて、それらの保存方法や食用方法などにつて記す。ことに、毒消しや滅菌のための味噌や塩の効能について、丁寧に記述されているのが興味深い。採用した資料は手書きで、もう一種類、版本が知られていて、内容はほぼ同一である。ただ、版本には前書きが附されている点が唯一の相違と言えよう。実際、領内で、千五百部以上配布されたのは、この版本であると推定される。

(ニ)[艸木食法]救餓録 完(荘司健斎 著、国立国会図書館所蔵、特一-一七七三、一冊)
 記載も簡単で、救荒に備えるための啓蒙書である。前半部において、野草八十四種類と木類十一種類の調理方法を簡単かつ明解に記述している。ただ、後半部の食用の野草三十九種類と毒草七種類を描いた木版の線画が美麗で、救荒植物の特長をみごとに表現している。図は全て下野氏の「草木形状録」を参考にした旨が記述されている。版本である。天保の飢饉に際して書かれた著作であろう。

(ホ)救荒草品圖譜 完(国立国会図書館所蔵、特一-八六八、一冊)
 嘉永四(一八五一)年に完成した版本で、伊勢國の安濃津の寛栗堂と混沌舎から刊行されている。十八種類の植物図版が美麗である。

(ヘ)救荒本草會誌(小野 蘭山 著、国立国会図書館白井光太郎文庫所蔵、特一-八二、一冊)
 成立は、寛政七(一七九五)年。「救荒本草」の註釈書とも言えるような内容である。先学の松岡玄達を参考にして、「救荒本草」をさらに詳しく研究した著作であろう。約七百種類の植物について、和名、地方名、漢字名、漢名、形態、生態、産地、などを簡単に述べていて、食用方法については詳しく触れていない。記載も簡単で、中国と日本の植物の名称を比較している記事が多い。図は掲載されていない。救荒書籍と言うよりは、むしろ植物誌的な色彩の濃い資料である。手書きである。講義録のためか、誤字や脱字なども少なからず見うけられる。日本の植物の名称、特に地方名や土俗名と漢名と比較・対照していることがひとつの特色と言えよう。ことに、先学の附した植物名称の誤謬などについても、数多くの指摘をしている。

(ト)救荒本草譯説(佐藤 成裕 著、国立国会図書館所蔵、特一-三四九、一冊)
 寛政八(一七九六)年春に成立している。「救荒本草」に所収されている植物を簡単に記述した解説書で、学生に対する講義録として活用されたもであろう。そのために「救荒本草譯説」と題されたのであろう。著者の佐藤成裕は宝暦十二(一七六二)年に江戸の青山に生まれ、嘉永一(一八四八)年に水戸で没している。その能力を評価されて、薩摩・白河・米澤・会津・備中・松山の諸藩に招かれ産物の調査に従事し、寛政十一(一七九九)年以後は水戸藩に定住し、その地で生涯を終えることになった。

(チ)救荒本草紀聞(畔田 伴存 著、国立国会図書館所蔵、特一-一七○二、二冊)
 二部構成で、それぞれ、「甲」「乙」の副題が表示されている。甲の巻之一から巻之八までが草部、乙の巻之九から巻之十一までが木部、巻之十二が米穀部、巻之十三が果部・菜部、巻之十四が菜部、という構成である。四百十一種類の植物の漢名、和名、地方名、土俗名、漢字名、形態、生態が、簡明に記述されている。これにも、食用部分や調理方法の解説などはほとんど見あたらず、中国と日本における植物の名称を比較・検討した内容である。「救荒本草」から抽出されたそれぞれの植物が、日本ではどのような名称として適合するかの考察に多くのページがさかれている印象が強い。当然ながら、漢名が見出しとなって、それに対応して、和名、生態、形態の記事が書かれるという文章構成となっている。彼の主著である「古名録」に見られるように、古典の作品に頻出する動物・植物・鉱物の名称の起源・変遷などの考察が主要な研究主題であることが類推される作品である。ただ、この中国と日本の植物の名称を比較・検討する原則なるもについての考察がこの資料には記述されていないので、とまどいを禁じ得ない。畔田伴存は、紀州和歌山において、寛政四(一七九二)年に生をうけ、安政六(一八五九)年に没している。本草學を小原桃洞に学び、和漢のあらゆる分野の古典に通じ、藩医として薬草園の管理にあずかった。翠山と号した

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