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日本差別史関係資料集成 第8巻(近世資料篇3:アイヌ研究1)

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第8巻 日本差別史関係資料集成 (近世資料篇3: アイヌ研究1)
The Collected Historical Materials of Japanese Discriminations in Yedo Era (III): The Study of Ainu Race I
〈2012/平成24年5月刊行〉

目  次
■原文篇
津輕一統志
蝦夷島奇觀(國文學研究資料舘所藏資料)
蝦夷島奇觀・圖録篇(東京國立博物舘所藏資料)
蝦夷國奇観(國學院大學圖書舘所藏資料)
祠部職掌類聚/作州波多村大法寺一件(附録)

■解読篇
凡 例
津輕一統志 解読篇
蝦夷島奇觀(國文學研究資料舘所藏資料) 解読篇
蝦夷國奇觀(國學院大學圖書舘所藏資料) 解読篇
祠部職掌類聚/作州波多村大法寺一件(附録)・解読篇
祠部職掌類聚/作州波多村大法寺一件(附録)・解 説

     解 説
□学問研究のための方法論の確立
 人間の造形する文化一般が社会的な諸関係の総体であるとするならば、学問に関してもその定義があてはまるであろう。まず最初に、停滞を余儀なくされている現在の歴史学研究が抱える問題点を摘出し、この難問を解くための問題提起を、ささやかながらも実行してみたい。このような現象が発生したのは、学問のみならず、文化一般に言えることであるのは、前述した通りである。耳目を集めるような傑作や大作が刊行されない原因を剔抉することが重要な課題であろう。「木を見て森を見ず」のような、視野の狭いかつ全体を俯瞰できない創作物が跳梁跋扈している現実の背後にある思想や哲学とは如何なるものであろうか?かくの如き素朴な疑問に答えるために、編者は「歴史や事象を解析する方法の確立」を提起していきたい。「作品の原因は作家にあらず」という、ポール・ヴァレリーの箴言を今一度想起するならば、現在の研究はあまりにも視野が狭く稚拙な点が見受けられると言えよう。この原因の一つとして、日本の大正デモクラシーの勃興期に、カール・マルクス、アダム・スミス、レーニンの思想が、日本的に変形を受けたうえで移入されてきたことが、研究の上に大きな陰を落としていると考えられる。はたして、彼らの思想的な確信や本質は如何なるものであったのか?
 差別もしくは被差別の歴史的研究に例をとってみよう。差別は、世界史的にみても、古代国家の成立以降、社会の形成の中で必然的に発生した事象でしかない。そして、運動家の側から発せられる言辞は常に一方的なものでしかない。ひとつのテーゼを確立し、かつ、差別の歴史を再構築するためには、方法論における展開が必要であろうというのが、編者の見解である。近世における被差別民の生活実体の研究においても、被差別民を存在させた法制度的な理由、あるいは、被差別民集団の頭領としての、浅草弾左右衛門の蓄財のシステム、彼が担った江戸時代の衛生産業の経済的実体について、実証的に検討すべきであろう。有り体に言うならば、政治史、経済史、法制度史などの面から光をあてて、全体像を確定していきたいというのが、これから以降の「世界・日本歴史資料集成シリーズ」の発刊の基本的方針である。特に「日本差別史関係資料集成シリーズ」においても、「方法論の確立」と「研究全体の俯瞰による全体像の構築」を基本的な主題として出版活動を展開する所存である。まず「方法論の確立」という視点から考察を始めるために、ルネ・デカルトの思想及び哲学に範をとって、解析するための論理を展開してみたい。
 ルネ・デカルトの「方法序説」(谷川多佳子訳、ワイド版岩波文庫一八○)から引用してみよう。まず、①明証的に真実な事柄のみを受け入れ、速断と偏見を避け、明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、判断の中に含めないこと、②難問の一つ一つを必要なだけの小部分に分解すること、③思考を順序に従って、単純なものから始めて、過程を検証しながら、複雑な認識にまで到達すること、そして最後は、④完全な枚挙と全体的な見直しによる、思想的確信の樹立、である。この方法を活用しながら、「研究全体の俯瞰による全体像の構築」に努める所存である。
 本巻においては、中世以降、松前藩と大商人による過酷な労働搾取により受難の歴史を余儀なくされたアイヌ民族の経済的・政治的な支配の歴史を実証するために編纂された。アイヌ民族の生活・民俗を詳細にかつ美麗な筆で描いた「蝦夷島奇観(えぞがしまきかん)」及び「蝦夷國奇観(えぞのくにきかん)」、シャクシャインの蜂起とその政治的・経済的な背景を詳述した「津軽一統史」を、原文に解読文を加えて掲載した。また、付録として、美作の宗門改宗事件を取り扱った「祠部職掌類聚/作州波多村大法寺一件」を、原文・解読文を加えて公刊した。
□文献解題(掲載資料)
(一)喜多村政方・桜庭正盈・相坂則武・伊東祐則編「津軽一統史(つがるいっとうし)」(弘前市立弘前図書館岩見文庫所蔵)
 津軽藩が編纂した官撰史書である。最初は、一七二七(享保十二)年、弘前藩の第五代藩主津軽信壽が、重臣の喜多村政方に命じて編纂を進めたが、二年後の一七二九(享保十四)年に、喜多村政方の急逝により、桜庭正盈、相坂則武、伊東祐則の三名が、この仕事を引き継いだ。彼らは藩内の旧家・寺社・武家の古文書を蒐集し、大浦光信が南部氏に種里城を与えられてから、先代藩主津軽信政までの二百五十年間余りの歴史を編年体にて記し、特に、津軽藩の祖である津軽為信の津軽統一の事績を六巻にわたって記し、また、津軽信壽の父である津軽信政の名君ぶりや、寛文蝦夷蜂起(一六六九年のシャクシャインの蜂起)の際に、松前藩を助力して江戸幕府から高く評価されたことを強調している。ただ、この内容からも類推できるように、「編者の永年に渡る労苦の結晶である見事な出来ばえである」とする肯定的な評価がある一方で、「一定の脚色が見られ、津軽家の業績の過大な評価である」という見解も見られる。一七三一(享保十六)年の刊行。シャクシャインの蜂起(一六六九年)の約六十年後の成立である。津軽一統志は、さまざまな版が知られていて、「国書総目録」」(岩波書店)によれば、「全十巻、首一巻、附一巻、五冊」の記載がある。この原資料は、題簽が「津軽一統史 十ノ巻/十ノ中巻 書」となっていて、八折りの裏から始まり、「松前蝦夷蜂起 巨細十中之巻記之」の見出しが付されている。この巻は主として、「松前蝦夷蜂起」つまり「シャクシャインの叛乱」の詳細な記録集成であり、叛乱以前の蝦夷地をめぐる経済的かつ政治的な状況に関して、詳細に叙述してある。本巻の主旨にのっとり、この部分のみの原文を採録し、かつ解読した。この巻を所蔵している機関は少なく、編者は、善本と推定される「弘前市立弘前図書館岩見文庫所蔵本」を使用した。他に、①国立公文書館内閣文庫(明治時代の写本、二部所蔵)、②国立公文書館内閣文庫(明治時代の写本、二部所蔵)、③国立公文書館内閣文庫(明治時代の写本、二部所蔵)、④東京国立博物館(明治時代の写本、三冊所蔵)、⑤京都大学(大正時代の写本)、⑥東京大学史料編纂所(最終巻を欠く)、⑦青森県立図書館(巻一から巻七までの七冊を所蔵)、⑧秋田県立公文書館、⑨北海道庁(三冊)、⑩函館市立図書館(巻十の一冊を所蔵)、⑪無窮会神習文庫、などが所蔵していて、編者が未見の資料が多い。
 この文献を解析するためには、アイヌ民族と移住してきた大和民族の抗争の歴史とその背景について、詳細に知る必要があろう。まず、抗争の歴史である。中世から近世にかけて、アイヌ人による和人に対しての大規模な蜂起は三回を数えている。それらの蜂起に関して、概要を説明してみよう。
①コシャマインの叛乱
 応仁の乱の十年前の一四五七(長禄元)年五月に発生した大和民族に対するアイヌ民族の武装蜂起。この蜂起の発端は、前年の一四五六(康正二)年に起きた、現在の函館市にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の地においての、和人の鍛冶屋によるアイヌ人少年の刺殺事件。この後、渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬)を首領とするアイヌ人が蜂起。胆振地方の鵡川から後志地方の余市までの広い範囲で戦闘が行われ、志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍はさらに進撃を続け、和人の拠点である道南十二館の内十館までを攻め落としたものの、一四五八(長禄二)年に、武田信広によってコシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。和人を大いに苦しめたが、最終的には平定され、松前藩形成の礎が築かれることとなった。
②シャクシャインの叛乱
 アイヌ民族対大和民族の抗争は、この後も一世紀にわたって続き、最終的には、武田信広を中心にした和民族が支配権を確立することとなった。しかし、松前藩の成立後も、アイヌ民族の大規模な蜂起は起こっている。十五世紀頃から始まった交易や幾多の抗争などによって、蝦夷地は文化的・政治的に統合され、十七世紀に至っては、河川、海浜、山林を中心とした複数の狩猟場、漁労場などの領域を含む、広い地域を政治的に統合する、惣大将と呼ばれる有力首長が現れていた。シャクシャイン、イシカリの首長ハウカセ、ヨイチの八郎右衛門、シリフカのカンニシコルなどがこれに相当する。シャクシャインはその中でも武勇に優れたアイヌ民族の指導者であった。
 太平の夢を結ぼうとするこの時代に、蝦夷地を支配していた松前藩と江戸幕府にとっては、一六六九(寛文九)年六月のアイヌ民族の叛乱は、青天の霹靂のごとき、体制を揺るがすような大事件であったに相違ない。
 この時代の経済情勢を俯瞰してみよう。当時、アイヌ民族は松前城下や津軽や南部方面まで交易舟を出し、大和民族の生産した鉄製品、漆器、米、木綿などと、彼らの産物である獣皮、鮭、鷹羽、昆布などと交換していた。しかし、十七世紀以降、幕藩体制が成立すると、幕府によりアイヌに対する交易権は、松前藩が独占して、他の藩には禁じられることになった。アイヌ民族にとっては、対和人交易の相手が松前藩のみとなったことを意味し、自由な交易が阻害されることとなった。この事は、松前家の事跡を記した「新羅之記録」により、豊臣秀吉から、蠣崎家に交易の独占を保証する朱印が与えられていることが見て取れる。江戸時代にあっては、徳川家の歴史を記した「徳川実紀」によれば、徳川家康から黒印状を与えられ、交易の独占権をより強固なものとすることが可能となった。
 年貢としての米を徴収出来ない松前藩にとって、アイヌ民族との一方的な交易は、超過利潤とも言える、莫大な不当利益を得るための、強権的な搾取システムを形成することになったといっても、過言ではない。五公五民どころではない、このような搾取のシステムの基本構造となったものが「場所請負制度」と「商場知行制度」である。幕府権力を背景にした松前藩は、十七世紀後半には、アイヌ人との交易は、松前城下などでの交易から、「商場知行制度」に基づく交易体制へと移行した。これは、松前藩が蝦夷地各地に「知行主」(松前藩主、藩主一族、上級藩士など)と彼らの「知行地」である「商場」を設定して、「知行主」は直接「商場」に出向き、そこに居住するアイヌ民族との交易する権利を与えられた。その「商場」に居住するアイヌ民族にとっては、和人との交易が特定の「知行主」に限定される不自由な交易体制であった。この「商場知行制度」により、交易の権利は次第にアイヌ民族に不利なものとなっていった。また、和人からアイヌ民族に交易を一方的に強要する「押買」の横行や、大名の鷹狩用の鷹を捕獲する鷹侍や砂金掘りの山師が蝦夷地内陸部を勝手に切り開く行為、松前藩船を用いての大網による鮭の大量捕獲などが、アイヌ民族の生活基盤を脅かし、和人への不満は大きくなっていった。アイヌ民族が交易に応じない場合、「子供を質に取る」と脅迫していた証言も得られている。
 もう一つの搾取の柱が、「場所請負制度」である。徳川幕府からアイヌ民族との交易の独占的権利を一六七二年に保証された松前藩は、大商人に交易の権利を委託し、彼らから徴収する請負金を藩の収入の源の一つととしていた。その際、アイヌ人との取引は、法外な利益を大商人にもたらしたのみならず、松前藩にとっても、圧倒的に有利な交易であったと言える。一例を挙げれば、シャクシャインの戦い前夜の一六六五(寛文五)年には、松前藩は、財政難を理由として、一方的に、従来の米二斗で干鮭百本の交換比率を、米七升で干鮭百本に改定した。米一斗で乾鮭五本が、十四本に変更され、約三倍近くも価格が上昇していることになる。まさに、全国的な飢饉が発生している時期にである。また、蜂起が起こる二年前の一六六七(寛文七)年、松前藩は米三千俵の拝借を幕府に要請していて、困窮ぶりが窺える。さらに、前述した、鷹狩り、金採掘、千島列島などでの漁業の際の苦役の強制である。また、戦いの後の和睦のための貢ぎ物のアイヌ人からの強制的な取得など、法外とも言える搾取の構造はさらに強化されていく。
 シャクシャインの戦いは、一六六九(寛文九)年六月に、シブチャリの首長シャクシャインが指導した、松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起である。「寛文」年間に発生したことから、「寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)」とも呼ばれる。事件の経過は以下のように記述される。
 シブチャリ以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ民族集団メナシクルと、シブチャリからシラオイにかけてのアイヌ民族集団であるシュムクルは、シブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いを続けていた。両集団の対立は、文献においては多くの死者が出たとされる一六四八(慶安元)年の春の戦いまで遡ることが出来る。メナシクルの首長であるカモクタインや、シュムクルの首長であり、ハエに拠点を持つオニビシもまた惣大将である。シャクシャインはメナシクルの副首長であり、カモクタインが一六五三(承応二)年にシュムクルによって殺害されたために首長となった。
 惣大将間の抗争を危惧した松前藩が仲裁に乗り出し、一六五五(明暦五)年、両集団は一旦講和に応じた。この事件が契機となって、シュムクルと松前藩が接近する。しかし、一六六五(寛文五)年頃から両者の対立が再燃し、一六六八(寛文八)年五月三十一日(寛文九年四月二十一日)、オニビシはメナシクルによって殺害される。シャクシャインにオニビシを殺されたハエのアイヌは、松前藩に武器の提供を希望するも拒否されたうえ、サルの首長ウタフが帰路に疱瘡にかかり死亡してしまった。このウタフ死亡の知らせは、和人への不信感も相まって、アイヌ民族には「松前藩による毒殺」と誤って伝えられた。この誤報により、アイヌ民族は松前藩ひいては和人に対する敵対感情を一層強めることになった。シャクシャインは蝦夷地各地のアイヌ民族に向けて、松前藩への蜂起を呼びかけ、多くのアイヌ民族がそれに呼応した。こうして事態は惣大将や地域集団同士の争いから、多数のアイヌ民族集団による松前藩に対する蜂起へと移行した。
 一六六九(寛文九)年六月二十一日(寛文九年六月四日)、シャクシャインらの呼びかけにに応じて、イシカリ(石狩地方)を除く、東は釧路のシラヌカから西は天塩のマシケ周辺において、一斉蜂起が行われた。鷹待、砂金掘り人、交易商船に乗り組む船員、水主、通詞などを襲撃した。突然の蜂起において、東蝦夷地では二百十三人、西蝦夷地では百四十三人の和人が殺された。一斉蜂起の報告を受けた松前藩は、家老の蠣崎広林が部隊を率いて胆振のクンヌイに出陣して、シャクシャイン軍に備えるとともに、幕府へ蜂起を急報し、援軍や武器及び兵糧の支援を求めた。幕府は松前藩の求めに応じ、津軽藩、盛岡藩、秋田藩に対して、蝦夷地への出兵準備を命じ、と同時に、松前藩主松前矩広の伯父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣した。津軽藩兵は杉山吉成を侍大将にして、松前城下での警備にあたった。
 シャクシャイン軍は松前をめざして進軍し、同年七月末にはクンヌイに到達して、松前軍と戦闘を展開した。戦闘は八月上旬頃まで続いたが、シャクシャイン軍の武器が弓矢主体であったのに対し、松前軍は鉄砲を使用していたこと及び内浦湾一帯に居住するアイヌ民族集団と分断され、協力が得られなかったことなどが原因で、シャクシャイン軍に不利な情勢となった。
 このために、シャクシャインは後退し、松前藩との長期抗戦に備えた。同年九月五日(八月十日)には、松前泰広が松前に到着、同月十六日(八月二十一日)、クンヌイの部隊と合流し、同月二十八日(九月四日)、軍勢を指揮して東蝦夷地へと進撃した。さらに松前泰広は、幕府権力を背景にした恫喝により、アイヌ民族間の分断とシャクシャインの孤立化を進めた。
 シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えを変えなかったために、戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた松前藩は謀略をめぐらし、シャクシャインに和睦を申し出た。シャクシャインはこの和睦に応じ、十一月十六日(十月二十三日)、ピポクの松前藩陣営に出向き、和睦の酒宴の最中に謀殺された。この他、アツマやサルに和睦のために訪れた首長なども同様に、謀殺あるいは捕縛された。翌十七日(二十四日)、シャクシャインの本拠地であるシブチャリのチャシも陥落した。指導者層を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。翌一六七○(寛文十)年、松前軍はヨイチに出陣してアイヌ民族から賠償品を取得し、各地のアイヌ民族からも賠償品を受け取り、松前藩への恭順の確認を行った。戦後処理のための出兵は一六七二(寛文十二)年まで続いた。
 このシャクシャインの戦い以降、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至った。その後、松前藩はアイヌ民族に対し七ヵ条の起請文によって服従を誓わせた。これにより松前藩のアイヌに対する経済的かつ政治的支配は、緩和策をとりながらも、さらに強化された。また前掲の「津軽一統志」にみられるように、惣大将というアイヌ有力首長によって統一されていた広大な地域は、「商場知行制度」や「場所請負制度」が発展及び強化により、場所ごとに分割され、独自の自立性をもつアイヌ民族の文化や政治的な主権は剥奪され、地域的な政治結合も解体されていった。
③クナシリ・メナシ(国後・目梨)の叛乱
 松前藩や大商人による「商場知行制度」や「場所請負制度」の強化は、アイヌ民族を交易相手から、「場所」での強制労働者へと転落させ、この窮状が後のクナシリ・メナシの戦いにつながることになる。一七八九(寛政元)年、東蝦夷地で起きたアイヌと和人の衝突事件で、当時は「寛政蝦夷蜂起」と呼ばれた。一七八九(寛政元)年、クナシリ場所請負人の飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ(国後島)のアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い、和人を殺害した。メナシのアイヌも、蜂起の呼びかけに応じ、和人の商人などを襲撃した。松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得にあたり、蜂起した者たちは投降、蜂起の指導者は処刑された。この事件で和人七十一人が犠牲者となった。鎮定直後、松前藩は飛騨屋の責任を問い、場所請負人の権利を剥奪し、阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。ロシア使節ラックスマンが通商を求めて根室に来航したのは、この事件からわずか三年後の一七九二(寛政四)年のことである。この時期以降、交易を求めて外国船が日本の海岸に頻繁に現れ、事態を重要視した幕府は、国防上の必要から、事件から十年を経た一七九九(寛政十一)年、東蝦夷地を、続いて一八○七(文化四)年、和人居住地および西蝦夷地を松前藩から召し上げ、直轄地とした。
 松前藩の「新羅之記録」には、一六一五(元和元)年から一六二一年(元和七)年頃にかけて、メナシ地方の蝦夷(アイヌ)が、百隻近い舟に、鷲の羽やラッコの毛皮などを積み、松前に赴き、交易したとの記録が残されてる。また、一六四四(正保元)年、「正保御国絵図」が作成された時、松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など三十九の島々が描かれ、一七一五(正徳五)年には、松前藩主は幕府に対し、「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告している。一七三一(享保十六)年には、国後・択捉のアイヌ人の首長らが松前藩主を訪問し、献上品を贈っている。一七五四(宝暦四)年、松前藩家臣の知行地として、国後島の他に、択捉島や得撫島を含むクナシリ場所が開かれ、国後島の泊には運上屋が置かれていた。一七七三(安永二)年、大商人の飛騨屋がクナシリ場所での交易を請け負うようになり、一七八八(天明八)年、大規模な搾粕製造を開始し、その労働力としてアイヌ人を雇用するようになる。
 このアイヌの人蜂起があった頃、ロシアが北方から北千島まですでに南進していて、幕府はこれに対抗して一七八四(天明四)年から、蝦夷地の調査を行い、一七八六(天明六)年には、得撫島までの探検を最上徳内に命じている。
 北見方面南部への和人の本格的な進出が始まったのはこの戦いの後と言われる。松浦武四郎「知床日誌」によると、「アイヌ人の女性は年頃の十六、十七歳になると、クナシリに遣られ、そこで漁師達の慰み物になったという。また、人妻は会所で番人達の妾にされたとも言われている。男子は離島で五年も十年も酷使され、妻帯することも叶わず、生涯苦界の地に居住せざるをえなかった」と記されている。その結果、寛政年間には二千余人もあった人口が、幕末には半減していたと言う。アイヌの人口減少はそれ以降も進み、北見地方をとってみても、明治十三年に九百五十五人いたアイヌ人口は、明治二十四年には三百八十一人にまで減った。
(二)秦檍丸「蝦夷島奇觀(えぞがしまきかん)」(國文學研究資料舘所藏資料)
 江戸時代末期におけるアイヌの風俗・民俗、蝦夷地に生息する動物・植物を詳細に描いた地誌の書で、原図は彩色されている。一八○一(寛政十三)年に刊行されている。この資料は後述する「蝦夷島奇觀」(東京國立博物舘所藏資料)の写本と推定される。絵図としての精密度、記述の精確さなどは遜色がないが、一部省略などが見られることなどから類推した次第である。(三)を原本に比較的近い資料と確定すると、これらのさまざまな資料は、内容的にはほぼ同一であるが、構成される図録の順番に多少の異同と省略が見られる。詳細な比較に関しては原文を掲載したので、本文を参照されたい。また、(三)をテクストとして編纂された、佐々木利和・谷澤尚一 研究・解説「蝦夷島奇観」(昭和五十七年四月二十日、雄峰社発行)に掲載されている、佐々木利和氏の詳細な解説である「『蝦夷島奇観』について」を参照していただければ、松前藩及び大商人による、「場所請負制度」のもとでの、強権的とも言える、アイヌ民族に対する経済的・政治的・文化的支配と、近世における受難の歴史の実体を理解することができるであろう。また、この解説書に記載されている谷澤尚一「秦檍丸略伝」も貴重な論攷で、一読をおすすめしたい。さらに、釈文つまり解読文も、諸処に不明字、欠字、誤字などが見られ、この資料の解読篇において全面的に校訂したことをお断りしておきたい。
 著者は、伊勢山田の人、秦檍丸(はたあわぎまる)で、「はたあわぎまろ」「はたあおきまる」とも呼ばれた。幕府の役人としての通称は村上島之允[村上島之丞](むらかみしまのじょう)。佐々木利和・谷澤尚一 研究・解説「蝦夷島奇観」(昭和五十七年四月二十日、雄峰社発行)によれば、一七六○(宝暦十)年に生まれ、一八○八(文化五)年八月十二日に、麻疹にかかり江戸で没している。享年四十八歳。江戸時代の蝦夷地探検家でありアイヌ民族研究家。年少のみぎりから旅にあけくれ、生涯を旅に暮らした。日本全国を旅したために、地理的情報に精通し、画筆を得意とした。後に、蝦夷地の調査でその資質を遺憾なく発揮し、この他に、アイヌの風俗画などを含む「蝦夷風俗史」(寛政五・一七九三)、「蝦夷風俗図説」(寛政五・一七九三)、「蝦夷見聞記」(寛政十・一七九八)、「蝦夷常用集」(寛政十一・一七九九)、「松前箱館江差奥地図」(文化四・一八○七)、「東蝦夷地名考」(文化五・一八○八)などの、数多くの蝦夷に関する地誌書を残した。また、自然科学にも造詣が深く、「甲斐国奇石録」、「伊豆国奇石録」、「膃肭臍漁図説」(寛政五・一七九三)、「香蕈播製」(寛政十三・一八○一)などの著作物を執筆している。
 一七八八(天明八)年、老中松平定信に伊勢で見いだされた秦檍丸は、彼の命令により、地理的調査のために、諸国を巡り、「安房国全図」(寛政元・一七八九)、「上総国全図」(寛政五・一七九三)、「伊豆国全図」(寛政五・一七九三)の他に、「安房国地名考」(寛政元・一七八九)、「上総国村高帳」(寛政五・一七九三)、「東山道志 日本国東山道陸奥州駅路図」(寛政十三・一八○一)など、地誌研究で見るべき作品を残している。一七九八(寛政十)年三月、幕府は渡辺胤などに蝦夷地の調査を命じ、近藤重蔵は、同年七月二十七日、択捉島に「大日本恵土呂府」と書かれた標柱を建立した。翌一七九九(寛政十一)年三月十七日、近藤重蔵は再度蝦夷地に派遣され、地理的知識が豊富で地図製作能力に秀でた秦檍丸を同行させ、松前・根室・箱館など蝦夷地を一周して探査した。後に秦檍丸は御普請役当分御雇として重蔵に同行し、再び蝦夷地に赴き、中途から松平忠明の随員となり、蝦夷地の調査に参加した。「北海道生計図説」を著した村上貞助は、彼の養子で、蝦夷の探検家として著名な間宮林蔵は彼の門弟である。

(三)秦檍丸「蝦夷島奇觀(えぞがしまきかん)・圖録篇」(東京國立博物舘所藏資料)
 本巻においては、東京國立博物舘所藏本の「圖録篇」のみを採録した。この資料が原本に比較的近い資料本であると推定されるのは、(二)や(四)において、部分的な省略が行われているのが、その証左であろう。これらの各種の原本の詳細な比較に関しては、佐々木利和・谷澤尚一 研究・解説「蝦夷島奇観」(昭和五十七年四月二十日、雄峰社発行)に、「『蝦夷島奇観』各本の内容対比」として、①東京國立博物舘所藏資料、②國文學研究資料舘所藏資料、③函館渡辺家所藏資料、④北海学園大学北駕文庫所藏資料、⑤國學院大學圖書舘所藏資料(後述の「蝦夷國奇観」とは異なる資料)の、五種類の資料の目次が詳細に比較されているので、この一覧表の閲読をお奨めしたい。
(四)秦檍丸「蝦夷國奇観(えぞのくにきかん)」(國學院大學圖書舘所藏資料)
 「蝦夷島奇觀」(東京國立博物舘所藏資料)の抄本であろう。内容もかなり省略されているが、絵画は美麗で、色彩も鮮やかである。
(五)「祠部職掌類聚/作州波多村大法寺一件」
 真言宗の寺が浄土真宗の寺へ宗門が一方的に移し替えられた事件の顛末記録である。一七七一(明和八)年の箱訴から、この事件は始まった。ことの発端は、美作国の戸数七十五余軒の小さな村にある小さな寺の住職と檀家の対立で、事件は評定所の審議にかけられ、提訴から十二年が経過した一七八二(天明二)年十二月に結審した。この時、幕府は、勘定奉行配下の大坂代官屋敷において、東西本願寺の僧侶を同席させ、檀家総代と庄屋を出廷させたうえで、美作国のみならず、備中・備前・播磨・但馬・丹波の合計六ヵ国、全部で三十二ヵ寺の僧侶をはじめ関係者を呼び出し、突然「一向宗へ改宗せよ」と命じる裁許を言い渡した。宗門と国家権力との癒着による被差別部落民の支配の実体などについて丁寧に叙述してある。この事件の詳細については小椋孝士氏の論攷(七五七ページから七六六ページまで)を参照されたい。所蔵者は、篠山市教育委員会(篠山市立青山歴史村)。
 
この史料集成が成立するにあたっては、さまざまな方からのご助力をいただいた。資料の貸与や撮影にご協力をいただいた國文學研究資料舘、東京國立博物舘、弘前市立弘前図書館、國學院大學北海道短大部図書館、篠山市教育委員会(篠山市立青山歴史村所藏)の諸氏に対して御礼の言葉を申し上げる次第である。また、企画の構成や内容の点検などに関してご教示をいただいた、小椋孝士氏、高木崇世芝氏、成田修一氏、高橋由彦氏、佐藤光氏のご助力なしでは本巻は公刊に至らなかったであろう。順不同ながら、記して、敬意と感謝の気持ちを表明する次第である。

二○一二年四月十九日
                                                 編者識
 
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目次

●第1部 原文篇
(01)津輕一統志
(02)蝦夷島奇觀(國文學研究資料舘所藏資料)
(03)蝦夷島奇觀・圖録篇(東京國立博物舘所藏資料)
(04)蝦夷國奇観(國學院大學圖書舘所藏資料)
(05)祠部職掌類聚/作州波多村大法寺一件(附録)

●第2部 解読篇
(01)津輕一統志 解読篇
(02)蝦夷島奇觀(國文學研究資料舘所藏資料) 解読篇
(03)蝦夷島奇觀・圖録篇(東京國立博物舘所藏資料)
(04)蝦夷國奇観(國學院大學圖書舘所藏資料) 解読篇
(05)祠部職掌類聚/作州波多村大法寺一件(附録) 解読篇
(06)祠部職掌類聚/作州波多村大法寺一件(附録) 解説

本集成の特色と活用法

(l)日本の差別史に関連する基本的な第一次資料を網羅--資料が全国各地に散在しているために、日本の差別に関連する第一次資料を網羅することはできなかった。今回はさまざまな資料を捜索・掲載し、日本の差別の歴史全体を俯瞰できる内容とした。

(2)充実した内容と斬新な構成--初学者にも理解できるように、明治4年から平成14年までを俯瞰できる差別史年表及び基本的な文献の解題目録を作成し、内容を豊富化した。既存のさまざまな概念にとらわれずに、事実としての差別の歴史を明かにすることを重視している。明治4年8月28日のの穢多・非人の称号廃止以降、跛行的な発展を続けた日本の資本主義体制下における、被差別民衆の闘争の歴史と国家の政策について詳細に研究できる内容とした。

(3)あらゆる学問分野で活用できる資料集成----この資料のみで、日本の差別形成史を俯瞰できるのが大きな特色。年表篇、資料篇、文献解題篇のいずれからも読むことが可能で、さらなる研究に活用するために便利な資料。日本歴史の研究者のみならず、作家、ジャーナリスト、社会科学・自然科学分野の研究者なども活用できる、体系的な資料集成。

お薦めしたい方々

大学・公共図書館、大学研究室(日本史学、日本経済史学、社会学、人類学、考古学、アジア歴史学、社会科学、自然科学など)、新聞社及び人権関連機関の図書室、人権問題に携わるスタッフ

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