商品コード: ISBN4-7603-0274-3 C3321 \50000E

第3巻 民間治療(15)

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50,000円    (税込:55,000円)
第3巻 民間治療【15】
Volume 3 Folk Cure(15)

(2004/平成16年4月刊行)

◎金瘡秘傳集
◎補訂衆方規矩大全(南川 道竹 著)
◎鑑効秘要方

 この巻に掲載した三書(金瘡秘傳集・訂補衆方規矩大全・鑑効秘要方)は日本で刊行された資料で、中国の漢方医学書から多くの引用が見られる。特に、処方名は『千金方』『和剤局方』『肘後方』『大平聖恵方』『救急易方』『衛生易簡方』などに散見されるものが多い。この巻では、内容が漢文であることもあり、あえて解読を行わなかった。ただ、巻末の充実した索引から、病気名、処方名、薬物の原材料として利用された動物・植物・鉱物名称を検索することが可能で、用途に応じて、創造的に活用できる内容構成となっている点に留意されたい。
(一)北山 道長『金瘡秘傳集(きんそうひでんしゅう)』[国立公文書館所蔵、医/八巻九冊/一九五・一九二]
(一)書誌
 本巻では国立公文書館所蔵本を使用した。八巻九冊である。
(二)所蔵されている資料一覧
(あ)国立公文書館[八巻九冊、一九五・一九二、元禄九(一六九六)年序、元禄十(一六九七)年刊行]
(い)京都大学
(う)東京大学鶚軒文庫
(え)東北大学狩野文庫
(お)日本大学富士川文庫
(か)早稲田大学
(き)杏雨書屋元乾々齋文庫[一帙七冊、乾三一八八、元禄九(一六九六)年序、元禄十(一六九七)年刊行]
(く)研医会図書館
(三)著者の生涯の記録
 著者の北山道長は、生年は未詳で、元禄十四(一七○一)年三月十五日に逝去している。江戸時代前期の人で、号は友松子、北山壽安と称した。明朝末期に、明国から長崎に渡来した、明人馬栄于と日本人の芸妓との間に生まれている。帰化した僧侶に医学を学び、古医学に傾倒して、大阪において開業する。仕官の勧めを拒否し、隱元などの黄蘖宗の僧侶と交友した影響のためか、占い、風水、地理などの諸学のエッセンスに通じることができた。この研鑽過程が、彼の医学の内容を充実させていたあのであろう。他に『衆方規矩』『馬療調法記』『北山医話』などの著述を残しているが、余りにも膨大な量になるため、ここでは省略した。
(四)本書の内容構成
 明の呉菎が記した『医方考』の注釈書で、「醫方考繩■」(六巻)と「醫方考脈語録」(二巻)の二部構成である。ただこの資料が中国の古典医学書『医方考』をそのまま複製したものでないことは、注釈の内容の豊富さにある。門人の白梅庵校閲とあるので、注釈は、両者の協同作業と推定される。まず第一部の処方篇から稿を起こすことにする。注釈は、本文中の頭注と著者による解説から構成されていて、それらは適切なものが多く、病気治療の参考ともなるものがあった。ことに、『医方考』に引用されていない医学文献を繙いて、頭注として記載するのはもとより、解説中では、自身の医者としての数々の治療体験が読み取ることができた。ことに、『医方考』の誤謬を訂正し、的確な論理で具体的な治療方法を記述しているのは、非常に興味をひかれた次第である。おそらく、偏見を交えずに言えば、この資料は、『医方考』の注釈書ではなく、改訂・増補版と言ったほうが、誤解を生む恐れがないであろう。編者の力量の不足故に、具体的な病気の治療方法、処方の内容にまで言及するこはできないが、この文献に盛り込まれている、日本の風土の中でしか罹らなかった病気や、それらに対応する治療方法、薬物などを考察することは、日中の漢方医学交流研究の手掛かりともなるものであろう。
 第二部に相当する「醫方考脈語録」(二巻)は、漢方医学用語の解説篇とも言える内容で、思弁的な色彩が見られる。ここに頻出する、脈、七診、五藏、六残など、基本的な漢方用語も、いささか、あいまいに活用されていることがなきにしもあらずの風潮の中で、これらの用語の真の意味を確定することは、非常に重要と思われる。
 とまれ、この文献を薬方書として読むのではなく、その行間に埋め込まれている何かを解析することが、新たな漢方医学研究の開始となり、薬物の効果のみを論ずる研究の閉塞状況を突破するものになることを期待する次第である。
(二)多紀 元簡『訂補衆方規矩大全(きゅうきゅうせんほう)』[国立公文書館所蔵、楓/二巻二冊/特二○・八]
(一)書誌
 本巻では国立公文書館所蔵本を使用した。二巻二冊である。日本国内の図書館や研究機関に多数所蔵されていて、分類すると、以下の様になる。
(二)所蔵されている資料一覧
(あ)静嘉堂文庫[享和元(一八○一)年序、享和元(一八○一)年刊行、写本、表題は『救急仙方』]
(い)研医会図書館[一冊、明治八年広幡氏写]
(う)京都大学附属図書館富士川文庫[二冊、キ・二三○、享和元(一八○一)年序、享和元(一八○一)年刊行、写本]
(え)京都府立図書館[享和元(一八○一)年序、享和元(一八○一)年刊行、写本、表題は『救急仙方』]
(お)九州大学[享和元(一八○一)年序、享和元(一八○一)年刊行]
(か)京都大学[享和元(一八○一)年序、享和元(一八○一)年刊行]
(き)杏雨書屋乾々齋文庫[一帙二冊、乾二一五五、享和元(一八○一)年序、享和元(一八○一)年刊行]
(く)無窮会平沼文庫[享和元(一八○一)年序、享和元(一八○一)年刊行]
(け)国立公文書館[二巻二冊、特二○・八、享和元(一八○一)年序、享和元(一八○一)年刊行]
(こ)宮内庁書陵部[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(さ)京都大学[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(し)京都大学附属図書館富士川文庫[二冊、キ・六四、享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(す)早稲田大学[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(せ)東京大学[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(そ)東京大学鶚軒文庫[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(た)東北大学狩野文庫[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(ち)日本大学富士川文庫[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(つ)神宮文庫[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(て)京都府立図書館[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(と)大阪府立図書館[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(な)杏雨書屋元杏雨書屋蔵書及び本草醫書[一帙二冊、杏二七、享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(に)■■書屋[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(ぬ)成田図書館[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(ね)無窮会神習文庫[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(の)国立国会図書館白井文庫[一冊、特一・二九四一、享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行、一六二丁]
(は)東洋文庫藤井文庫[一冊、享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(ひ)東洋文庫藤井文庫[二巻二冊、享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(ふ)栃木県立図書館黒崎文庫[二冊、享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(へ)研医会図書館[二冊、享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(ほ)研医会図書館[二冊、刊行年不明]
(ま)玉川大学[一冊、刊行年不明]
(み)京都大学附属図書館富士川文庫[刊行年不明]
(む)西尾市立図書館岩瀬文庫[刊行年不明]
(め)刈谷市立図書館[刊行年不明]
(三)著者の生涯の記録
 著者の多紀元簡(たきげんかん、たきもとやす)は、寶暦五(一七五五)年生まれ、文化七(一八一○)年十二月二日没。享年五十六歳。江戸の上中里の城官寺に墓所がある。多紀元徳の息子として、この世に生を享け、父に医学を、漢文を井上金峨に学ぶ。三十六歳で幕府の奥医師に抜擢され、後に、方眼にも列せられた。この医業のかたわら、医学舘で、父と共に、後進の指導にもあたった。書画に造詣が深く、また、医学の分野では、考証学派と称されている。安清、安長は通称で、幼名金松、桂山、櫟窓、櫟陰と号した。多紀元胤、多紀元堅は、彼の子息である。本当の姓は丹波であるため、凡例には丹波元簡と記されている。多数の著作が知られているが、ここでは割愛した。
(四)本書の内容構成
 書名が示すごとく、緊急の病気に対する処方を解説した藥方書である。卒死、金瘡、飲食毒、など、三十門に分類した病気に対応した処方が丁寧に記されている。中国の古文献からの引用がほとんとで、記載は、庶民に理解しやすいように配慮したためか、懇切丁寧である。また、巻末の索引を活用するこによって、各種の病気に対応した処方が体系的に理解できる構成となっている。
(一)北山 道長『鑑効秘要方(かんこうひようほう)』[国立公文書館所蔵、医/二巻二冊/一九五・二七]
(一)書誌
 本巻では国立公文書館所蔵本を使用した。二巻二冊である。
(二)所蔵されている資料一覧
(あ)国立公文書館[二巻二冊、一九五・二七]
(三)著者の生涯の記録
 著者の北山道長は、生年は未詳で、元禄十四(一七○一)年三月十五日に逝去している。江戸時代前期の人で、号は友松子、北山壽安と称した。明朝末期に、明国から長崎に渡来した、明人馬栄于と日本人の芸妓との間に生まれている。帰化した僧侶に医学を学び、古医学に傾倒して、大阪において開業する。仕官の勧めを拒否し、隱元などの黄蘖宗の僧侶と交友した影響のためか、占い、風水、地理などの諸学のエッセンスに通じることができた。この研鑽過程が、彼の医学の内容を充実させていたあのであろう。他に『衆方規矩』『馬療調法記』『北山医話』などの著述を残しているが、余りにも膨大な量になるため、ここでは省略した。
(四)本書の内容構成
 前半部と後半部が多量に脱落した資料である。各病気に対応した処方の解説書で、各処方名とそれを構成する生藥名と必要な量が明示されている。原書の「巻之二目録」(七三三ページ)を参照すると、全部で病気が三十六門に分類されていて、それらの病気に対応した処方が記載されたことが窺われる。
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解 説

 この巻に掲載した三書(金瘡秘傳集・訂補衆方規矩大全・鑑効秘要方)は日本で刊行された資料で、中国の漢方医学書から多くの引用が見られる。特に、処方名は『千金方』『和剤局方』『肘後方』『大平聖恵方』『救急易方』『衛生易簡方』などに散見されるものが多い。この巻では、内容が漢文であることもあり、あえて解読を行わなかった。ただ、巻末の充実した索引から、病気名、処方名、薬物の原材料として利用された動物・植物・鉱物名称を検索することが可能で、用途に応じて、創造的に活用できる内容構成となっている点に留意されたい。
(一)北山 道長『金瘡秘傳集(きんそうひでんしゅう)』[国立公文書館所蔵、医/八巻九冊/一九五・一九二]
(一)書誌
 本巻では国立公文書館所蔵本を使用した。八巻九冊である。
(二)所蔵されている資料一覧
(あ)国立公文書館[八巻九冊、一九五・一九二、元禄九(一六九六)年序、元禄十(一六九七)年刊行]
(い)京都大学
(う)東京大学鶚軒文庫
(え)東北大学狩野文庫
(お)日本大学富士川文庫
(か)早稲田大学
(き)杏雨書屋元乾々齋文庫[一帙七冊、乾三一八八、元禄九(一六九六)年序、元禄十(一六九七)年刊行]
(く)研医会図書館
(三)著者の生涯の記録
 著者の北山道長は、生年は未詳で、元禄十四(一七○一)年三月十五日に逝去している。江戸時代前期の人で、号は友松子、北山壽安と称した。明朝末期に、明国から長崎に渡来した、明人馬栄于と日本人の芸妓との間に生まれている。帰化した僧侶に医学を学び、古医学に傾倒して、大阪において開業する。仕官の勧めを拒否し、隱元などの黄蘖宗の僧侶と交友した影響のためか、占い、風水、地理などの諸学のエッセンスに通じることができた。この研鑽過程が、彼の医学の内容を充実させていたあのであろう。他に『衆方規矩』『馬療調法記』『北山医話』などの著述を残しているが、余りにも膨大な量になるため、ここでは省略した。
(四)本書の内容構成
 明の呉菎が記した『医方考』の注釈書で、「醫方考繩■」(六巻)と「醫方考脈語録」(二巻)の二部構成である。ただこの資料が中国の古典医学書『医方考』をそのまま複製したものでないことは、注釈の内容の豊富さにある。門人の白梅庵校閲とあるので、注釈は、両者の協同作業と推定される。まず第一部の処方篇から稿を起こすことにする。注釈は、本文中の頭注と著者による解説から構成されていて、それらは適切なものが多く、病気治療の参考ともなるものがあった。ことに、『医方考』に引用されていない医学文献を繙いて、頭注として記載するのはもとより、解説中では、自身の医者としての数々の治療体験が読み取ることができた。ことに、『医方考』の誤謬を訂正し、的確な論理で具体的な治療方法を記述しているのは、非常に興味をひかれた次第である。おそらく、偏見を交えずに言えば、この資料は、『医方考』の注釈書ではなく、改訂・増補版と言ったほうが、誤解を生む恐れがないであろう。編者の力量の不足故に、具体的な病気の治療方法、処方の内容にまで言及するこはできないが、この文献に盛り込まれている、日本の風土の中でしか罹らなかった病気や、それらに対応する治療方法、薬物などを考察することは、日中の漢方医学交流研究の手掛かりともなるものであろう。
 第二部に相当する「醫方考脈語録」(二巻)は、漢方医学用語の解説篇とも言える内容で、思弁的な色彩が見られる。ここに頻出する、脈、七診、五藏、六残など、基本的な漢方用語も、いささか、あいまいに活用されていることがなきにしもあらずの風潮の中で、これらの用語の真の意味を確定することは、非常に重要と思われる。
 とまれ、この文献を薬方書として読むのではなく、その行間に埋め込まれている何かを解析することが、新たな漢方医学研究の開始となり、薬物の効果のみを論ずる研究の閉塞状況を突破するものになることを期待する次第である。
(二)多紀 元簡『訂補衆方規矩大全(きゅうきゅうせんほう)』[国立公文書館所蔵、楓/二巻二冊/特二○・八]
(一)書誌
 本巻では国立公文書館所蔵本を使用した。二巻二冊である。日本国内の図書館や研究機関に多数所蔵されていて、分類すると、以下の様になる。
(二)所蔵されている資料一覧
(あ)静嘉堂文庫[享和元(一八○一)年序、享和元(一八○一)年刊行、写本、表題は『救急仙方』]
(い)研医会図書館[一冊、明治八年広幡氏写]
(う)京都大学附属図書館富士川文庫[二冊、キ・二三○、享和元(一八○一)年序、享和元(一八○一)年刊行、写本]
(え)京都府立図書館[享和元(一八○一)年序、享和元(一八○一)年刊行、写本、表題は『救急仙方』]
(お)九州大学[享和元(一八○一)年序、享和元(一八○一)年刊行]
(か)京都大学[享和元(一八○一)年序、享和元(一八○一)年刊行]
(き)杏雨書屋乾々齋文庫[一帙二冊、乾二一五五、享和元(一八○一)年序、享和元(一八○一)年刊行]
(く)無窮会平沼文庫[享和元(一八○一)年序、享和元(一八○一)年刊行]
(け)国立公文書館[二巻二冊、特二○・八、享和元(一八○一)年序、享和元(一八○一)年刊行]
(こ)宮内庁書陵部[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(さ)京都大学[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(し)京都大学附属図書館富士川文庫[二冊、キ・六四、享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(す)早稲田大学[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(せ)東京大学[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(そ)東京大学鶚軒文庫[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(た)東北大学狩野文庫[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(ち)日本大学富士川文庫[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(つ)神宮文庫[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(て)京都府立図書館[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(と)大阪府立図書館[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(な)杏雨書屋元杏雨書屋蔵書及び本草醫書[一帙二冊、杏二七、享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(に)■■書屋[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(ぬ)成田図書館[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(ね)無窮会神習文庫[享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(の)国立国会図書館白井文庫[一冊、特一・二九四一、享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行、一六二丁]
(は)東洋文庫藤井文庫[一冊、享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(ひ)東洋文庫藤井文庫[二巻二冊、享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(ふ)栃木県立図書館黒崎文庫[二冊、享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(へ)研医会図書館[二冊、享和元(一八○一)年序、文化七(一八一○)年刊行]
(ほ)研医会図書館[二冊、刊行年不明]
(ま)玉川大学[一冊、刊行年不明]
(み)京都大学附属図書館富士川文庫[刊行年不明]
(む)西尾市立図書館岩瀬文庫[刊行年不明]
(め)刈谷市立図書館[刊行年不明]
(三)著者の生涯の記録
 著者の多紀元簡(たきげんかん、たきもとやす)は、寶暦五(一七五五)年生まれ、文化七(一八一○)年十二月二日没。享年五十六歳。江戸の上中里の城官寺に墓所がある。多紀元徳の息子として、この世に生を享け、父に医学を、漢文を井上金峨に学ぶ。三十六歳で幕府の奥医師に抜擢され、後に、方眼にも列せられた。この医業のかたわら、医学舘で、父と共に、後進の指導にもあたった。書画に造詣が深く、また、医学の分野では、考証学派と称されている。安清、安長は通称で、幼名金松、桂山、櫟窓、櫟陰と号した。多紀元胤、多紀元堅は、彼の子息である。本当の姓は丹波であるため、凡例には丹波元簡と記されている。多数の著作が知られているが、ここでは割愛した。
(四)本書の内容構成
 書名が示すごとく、緊急の病気に対する処方を解説した藥方書である。卒死、金瘡、飲食毒、など、三十門に分類した病気に対応した処方が丁寧に記されている。中国の古文献からの引用がほとんとで、記載は、庶民に理解しやすいように配慮したためか、懇切丁寧である。また、巻末の索引を活用するこによって、各種の病気に対応した処方が体系的に理解できる構成となっている。
(一)北山 道長『鑑効秘要方(かんこうひようほう)』[国立公文書館所蔵、医/二巻二冊/一九五・二七]
(一)書誌
 本巻では国立公文書館所蔵本を使用した。二巻二冊である。
(二)所蔵されている資料一覧
(あ)国立公文書館[二巻二冊、一九五・二七]
(三)著者の生涯の記録
 著者の北山道長は、生年は未詳で、元禄十四(一七○一)年三月十五日に逝去している。江戸時代前期の人で、号は友松子、北山壽安と称した。明朝末期に、明国から長崎に渡来した、明人馬栄于と日本人の芸妓との間に生まれている。帰化した僧侶に医学を学び、古医学に傾倒して、大阪において開業する。仕官の勧めを拒否し、隱元などの黄蘖宗の僧侶と交友した影響のためか、占い、風水、地理などの諸学のエッセンスに通じることができた。この研鑽過程が、彼の医学の内容を充実させていたあのであろう。他に『衆方規矩』『馬療調法記』『北山医話』などの著述を残しているが、余りにも膨大な量になるため、ここでは省略した。
(四)本書の内容構成
 前半部と後半部が多量に脱落した資料である。各病気に対応した処方の解説書で、各処方名とそれを構成する生藥名と必要な量が明示されている。原書の「巻之二目録」(七三三ページ)を参照すると、全部で病気が三十六門に分類されていて、それらの病気に対応した処方が記載されたことが窺われる。「巻之二目録」は以下のような構成である。

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