商品コード: ISBN4-7603-0254-9 C3321 \50000E

第1巻 民間治療(13)

販売価格:
50,000円    (税込:54,000円)
第1巻 民間治療(13)
Volume 1 Folk Cure(13)

〈2003/平成15年6月刊行〉

◎経脈圖説(夏井 透玄 著)
◎鍼灸阿是要穴(岡本 爲竹 著)
◎経穴彙解(原 昌克 著)

 この論攷を記すにあたって、まず、最初に大前提として語らなければならないのは、全てのイドラ(幻像)を捨てさることである。そこの地点からでなければ、議論は一歩も進展しないであろう。ポール・ヴァレリーがいみじくも語るように、「作品の原因を作家に特定すると大きな過ちを招くことになる」ことにも留意されたい。あまねく漢方医学書についての解説が、作者と著作物を結び付けて、その関係のみに焦点をあてて書き記すことが多いのではなかろうか。漢方医学を、中国の思想の一分枝として把握するならば、このような作者-作品の単線的な記載方法は影をひそめるであろうと推測される。そして、現代医学のフィルターをかけて認識する手法も、大きな問題をはらんでいると言えよう。
 この巻に掲載した三書(經脈圖説・鍼灸阿是要穴・經穴彙解)は日本で刊行された資料であるが、中国の漢方医学書から多くの示唆を得て作成されたもので、人体を完結した小宇宙として認識する医学思想で一貫している。あえて語るならば、効用や薬品の分量のみを問題とする視点から読み進めることは、大きな過誤を導きだす恐れが十分にある。まず、基本的でかつ瀕出する漢方医学用語の検討から、稿を開始することにする。
 經絡とは、人体において、血管系・リンパ系・神経系とは異なる循環・反応系であると定義されている。人体には十二經脈(手足おのおのに、太陽・太陰・少陽・少陰・陽明・厥陰の六經脈があって、それぞれが内臓に関係する。手太陽は小腸、手太陰は肺臓、手少陽は三焦、手少陰は心臓、手陽明は大腸、手厥陰は心包、足太陽は膀胱、足太陰は脾臓、足少陽は胆、足少陰は腎臓、足陽明は胃、足厥陰は肝臓に、それぞれ関係する)、十五絡脈があるとされている。經は動脈のことで、動脈の一部を含む主脈、絡は静脈のことで、静脈の一部を含む支脈とされている。この經絡の要所が經穴で、全身に数百箇所あり、灸を点じ、鍼を打つべき箇所である。この經穴が、病気の診断と治療の対象点とされる。
(I)夏井 透玄『經脈圖説(けいみゃくずせつ)』[国立公文書館所蔵、医/四巻七冊/一九五・一○一]
(一)書誌
 本巻では国立公文書館所蔵本(采青堂藏板)を使用した。四巻七冊である。序文、目録、凡例の後の、本文の冒頭に「武江友草子 夏井透玄 著輯/男 玄碩徳甫 全校/門人 上原春良 全校/友人 今井健順齋父 訂正」と記載されている。表題のすぐ後には「經脈圖説序」と題して、友松子北山壽安が寄稿している。ここに書かれている「辛巳春三月」の年記から推定すると、この序文は元禄十四(一七○一)年に書かれたものである。また、「經脈圖説後序」は元禄癸未(元禄十六年、一七○三年)の年記があり、「東洲今井健書」と記されている。おそらく、友松子北山壽安が序文を書いた二年後の元禄十六(一七○三)年に刊行されたものと推定できよう。
(二)所蔵されている資料一覧
(あ)国立公文書館[四巻七冊、一九五・一○一、元禄十六(一七○三)年刊行]
(い)京都大学[八冊]
(三)著者の生涯の記録
 著者の夏井透玄は、武蔵の人で、生没年は未詳。江戸時代前期の人で、友松子北山壽安と交友があった。采青園主人友草子、友草と号した。著作は、この『經脈圖説』以外、見いだすことができなかった。
(四)本書の内容構成
 豊富な図版を用いて、人体の經絡、經穴について懇切丁寧に解説した書である。全文が漢文で書かれていて、中国の古典籍からの引用を主眼とした資料であることを窺わせる内容である。目次構成も、(1)元集上、(2)元集下、(3)亨集上、(4)亨集下、(5)利集上、(6)利集下、(7)貞集上下、のように七章に分類されていて、いずれの章からも読み進むことのできる内容となっている。巻末の索引から、經絡、經穴などの名称を容易に検索できる。
(II)岡本 伊恒『鍼灸阿是要穴(しんきゅうあぜようけつ)』[国立公文書館所蔵、医/五巻五冊/一九五・一一九]
(一)書誌
 本巻では国立公文書館所蔵本を使用した。五巻五冊である。巻末に「京 芳野屋小兵衞 梓行/大坂高麗橋一町目 同 五兵衞 梓行」と記されていて、元禄第十六(一八五一)秋青陽吉祥日の年記がある。本文の最初に「洛下 法橋 岡本爲竹一抱子 撰/門人 長州 萩 熊谷順安竹隱 同校/門人 防州 熊毛 末兼原端向榮 同校」の記述がある。また、この資料は、本書で使用したもの以外は、杏雨書屋に所蔵されていて、同一の内容である。
(二)所蔵されている資料一覧
(あ)国立公文書館[五巻五冊、一九五・一一九、元禄十六(一七○三)年刊行]
(い)杏雨書屋元杏雨書屋藏書及び武田藥品本草醫書[一帙五冊、杏六八二、元禄十六(一七○三)年刊行]
(三)著者の生涯の記録
 著者の岡本爲竹は、福井の人である。生年は未詳。正徳六(一七一六)年五月二十日没。享年六十二歳前後と言われている。京都の本圀寺に墓所がある。越前福井藩士杉森信義の三男として、この世に生を享け、父の仕官に従って京都に随行し、大和宇陀藩織田長頼の侍医平井自安の養子となり、織田家に仕えた。最初は、味岡三伯に中国漢方の古典を学び、彼の高弟となり、元禄時代の初期に仕官して、母方の姓岡本を名乗り、元禄七(一六九四)年法橋となった。漢方医学書を庶民に普及するために、国字で平易に記述する啓蒙活動、いわゆる諺解に従事したが、兄の近松門左衛門にその軽薄とも思われる行動を戒められ、以後、反省するに至ったことが伝えられている。爲竹は通称で、名は伊恒、幼名金三郎、一得斎、一抱、一抱子、攝生堂、守一翁と号した。一時、平井要安を名乗った。多数の著作が知られているが、ここでは割愛した。
(四)本書の内容構成
 約190種類に及ぶ病気名及び經穴名について、対処方法や内容を解説した書である。中国の古典籍からの引用が豊富で、これらの資料の名称が記載されているのが大きな特色と言えよう。和文と漢文が混載されているが、記述は平易で読みやすい内容となっている。巻末の索引から、經絡、經穴、文献、病気などの名称を容易に検索可能。
(III)原 昌克『經穴彙解』(けいけついかい)』[国立公文書館所蔵、医/八巻八冊/一九五・一○六]
(一)書誌
 本巻では国立公文書館所蔵本(江都 青藜閣/水戸 東壁樓)を使用した。八巻八冊である。「經穴彙解自序」の年記は「享和癸亥(一八○三)年」、立原任「經穴彙解叙」のそれは「文化四(一八○七)年」となっている。『国書総目録』『古典籍総合目録』(岩波書店)によれば、この資料は、本書で使用したもの以外は、以下の諸機関に所蔵されている。編者が未見の資料も多く、ここでは、これらの資料を列挙するにとどめたい。
(二)所蔵されている資料一覧
(あ)早稲田大学図書館[文化四年序、嘉永七(一八五四)年刊行]
(い)京都府立図書館[文化四年序、嘉永七(一八五四)年刊行]
(う)京都大学附属図書館富士川文庫[七冊、ケ一七○、文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(え)刈谷市立図書館[文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(お)杏雨書屋乾々齋文庫[一帙八冊、乾三六二三、文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(か)東北大学図書館狩野文庫[文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(き)京都大学[文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(く)九州大学[文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(け)慶応義塾大学医学部富士川文庫[文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(こ)東京都立日比谷図書館[文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(さ)神宮文庫[文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(し)天理図書館[文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(す)滋賀医科大学図書館河村文庫[八冊、文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(せ)茨城県歴史館[八冊、文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(そ)国立公文書館[八巻八冊、一九五・一○六、文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(三)著者の生涯の記録
 寶暦三(一七五三)年六月十二日生、文政三(一八二○)年八月、六十八歳で没。昌克は名で、字は子柔、通称は玄与、玄貞、玄春。南陽、叢桂亭と号した。水戸藩医原昌術の子息として生まれ、幼少の頃より、儒学を伯父の戸崎淡園に、医学を父に学ぶ。安永二(一七七三)年、家督を相続。安永三(一七七四)年、京都に上がり、山脇東洋、賀川玄迪に師事して古医学、産科を学び、安永四(一七七五)年、帰藩して江戸の小石川の裏町に、按摩・鍼灸を生業として居を構え、江戸在住の水戸藩主の乾霍乱の病を、走馬湯を処方して治癒させた。その功績により、天明七(一七八七)年、御側医に抜擢され、五百石を賜る。享和二(一八○二)年、表医師肝煎となる。水戸医学の基礎を築き、軍陣医学を説いた。文化元(一八○四)年に上梓した『砦草』が軍陣医学の嚆矢とも言える医学書で、戦場における衛生管理、飲食、飲料水の処置、毒煙からの脱出、救急処置、応急手当などの方法について論述した貴重な資料と言えよう。多数の著作が知られているが、ここでは割愛した。
(四)本書の内容構成
 約600種類以上の經穴、經絡の解説書である。中国の古典的な医学書からの引用が多く見られ、全文が漢文で記載されている。巻末の索引から、經絡、經穴、文献、病気などの名称を容易に検索可能。
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解 説

 この論攷を記すにあたって、まず、最初に大前提として語らなければならないのは、全てのイドラ(幻像)を捨てさることである。そこの地点からでなければ、議論は一歩も進展しないであろう。ポール・ヴァレリーがいみじくも語るように、「作品の原因を作家に特定すると大きな過ちを招くことになる」ことにも留意されたい。あまねく漢方医学書についての解説が、作者と著作物を結び付けて、その関係のみに焦点をあてて書き記すことが多いのではなかろうか。漢方医学を、中国の思想の一分枝として把握するならば、このような作者-作品の単線的な記載方法は影をひそめるであろうと推測される。そして、現代医学のフィルターをかけて認識する手法も、大きな問題をはらんでいると言えよう。
 この巻に掲載した三書(經脈圖説・鍼灸阿是要穴・經穴彙解)は日本で刊行された資料であるが、中国の漢方医学書から多くの示唆を得て作成されたもので、人体を完結した小宇宙として認識する医学思想で一貫している。あえて語るならば、効用や薬品の分量のみを問題とする視点から読み進めることは、大きな過誤を導きだす恐れが十分にある。まず、基本的でかつ瀕出する漢方医学用語の検討から、稿を開始することにする。
 經絡とは、人体において、血管系・リンパ系・神経系とは異なる循環・反応系であると定義されている。人体には十二經脈(手足おのおのに、太陽・太陰・少陽・少陰・陽明・厥陰の六經脈があって、それぞれが内臓に関係する。手太陽は小腸、手太陰は肺臓、手少陽は三焦、手少陰は心臓、手陽明は大腸、手厥陰は心包、足太陽は膀胱、足太陰は脾臓、足少陽は胆、足少陰は腎臓、足陽明は胃、足厥陰は肝臓に、それぞれ関係する)、十五絡脈があるとされている。經は動脈のことで、動脈の一部を含む主脈、絡は静脈のことで、静脈の一部を含む支脈とされている。この經絡の要所が經穴で、全身に数百箇所あり、灸を点じ、鍼を打つべき箇所である。この經穴が、病気の診断と治療の対象点とされる。
(I)夏井 透玄『經脈圖説(けいみゃくずせつ)』[国立公文書館所蔵、医/四巻七冊/一九五・一○一]
(一)書誌
 本巻では国立公文書館所蔵本(采青堂藏板)を使用した。四巻七冊である。序文、目録、凡例の後の、本文の冒頭に「武江友草子 夏井透玄 著輯/男 玄碩徳甫 全校/門人 上原春良 全校/友人 今井健順齋父 訂正」と記載されている。表題のすぐ後には「經脈圖説序」と題して、友松子北山壽安が寄稿している。ここに書かれている「辛巳春三月」の年記から推定すると、この序文は元禄十四(一七○一)年に書かれたものである。また、「經脈圖説後序」は元禄癸未(元禄十六年、一七○三年)の年記があり、「東洲今井健書」と記されている。おそらく、友松子北山壽安が序文を書いた二年後の元禄十六(一七○三)年に刊行されたものと推定できよう。
(二)所蔵されている資料一覧
(あ)国立公文書館[四巻七冊、一九五・一○一、元禄十六(一七○三)年刊行]
(い)京都大学[八冊]
(三)著者の生涯の記録
 著者の夏井透玄は、武蔵の人で、生没年は未詳。江戸時代前期の人で、友松子北山壽安と交友があった。采青園主人友草子、友草と号した。著作は、この『經脈圖説』以外、見いだすことができなかった。
(四)本書の内容構成
 豊富な図版を用いて、人体の經絡、經穴について懇切丁寧に解説した書である。全文が漢文で書かれていて、中国の古典籍からの引用を主眼とした資料であることを窺わせる内容である。目次構成も、(1)元集上、(2)元集下、(3)亨集上、(4)亨集下、(5)利集上、(6)利集下、(7)貞集上下、のように七章に分類されていて、いずれの章からも読み進むことのできる内容となっている。巻末の索引から、經絡、經穴などの名称を容易に検索できる。
(II)岡本 伊恒『鍼灸阿是要穴(しんきゅうあぜようけつ)』[国立公文書館所蔵、医/五巻五冊/一九五・一一九]
(一)書誌
 本巻では国立公文書館所蔵本を使用した。五巻五冊である。巻末に「京 芳野屋小兵衞 梓行/大坂高麗橋一町目 同 五兵衞 梓行」と記されていて、元禄第十六(一八五一)秋青陽吉祥日の年記がある。本文の最初に「洛下 法橋 岡本爲竹一抱子 撰/門人 長州 萩 熊谷順安竹隱 同校/門人 防州 熊毛 末兼原端向榮 同校」の記述がある。また、この資料は、本書で使用したもの以外は、杏雨書屋に所蔵されていて、同一の内容である。
(二)所蔵されている資料一覧
(あ)国立公文書館[五巻五冊、一九五・一一九、元禄十六(一七○三)年刊行]
(い)杏雨書屋元杏雨書屋藏書及び武田藥品本草醫書[一帙五冊、杏六八二、元禄十六(一七○三)年刊行]
(三)著者の生涯の記録
 著者の岡本爲竹は、福井の人である。生年は未詳。正徳六(一七一六)年五月二十日没。享年六十二歳前後と言われている。京都の本圀寺に墓所がある。越前福井藩士杉森信義の三男として、この世に生を享け、父の仕官に従って京都に随行し、大和宇陀藩織田長頼の侍医平井自安の養子となり、織田家に仕えた。最初は、味岡三伯に中国漢方の古典を学び、彼の高弟となり、元禄時代の初期に仕官して、母方の姓岡本を名乗り、元禄七(一六九四)年法橋となった。漢方医学書を庶民に普及するために、国字で平易に記述する啓蒙活動、いわゆる諺解に従事したが、兄の近松門左衛門にその軽薄とも思われる行動を戒められ、以後、反省するに至ったことが伝えられている。爲竹は通称で、名は伊恒、幼名金三郎、一得斎、一抱、一抱子、攝生堂、守一翁と号した。一時、平井要安を名乗った。多数の著作が知られているが、ここでは割愛した。
(四)本書の内容構成
 約190種類に及ぶ病気名及び經穴名について、対処方法や内容を解説した書である。中国の古典籍からの引用が豊富で、これらの資料の名称が記載されているのが大きな特色と言えよう。和文と漢文が混載されているが、記述は平易で読みやすい内容となっている。巻末の索引から、經絡、經穴、文献、病気などの名称を容易に検索可能。
(III)原 昌克『經穴彙解』(けいけついかい)』[国立公文書館所蔵、医/八巻八冊/一九五・一○六]
(一)書誌
 本巻では国立公文書館所蔵本(江都 青藜閣/水戸 東壁樓)を使用した。八巻八冊である。「經穴彙解自序」の年記は「享和癸亥(一八○三)年」、立原任「經穴彙解叙」のそれは「文化四(一八○七)年」となっている。『国書総目録』『古典籍総合目録』(岩波書店)によれば、この資料は、本書で使用したもの以外は、以下の諸機関に所蔵されている。編者が未見の資料も多く、ここでは、これらの資料を列挙するにとどめたい。
(二)所蔵されている資料一覧
(あ)早稲田大学図書館[文化四年序、嘉永七(一八五四)年刊行]
(い)京都府立図書館[文化四年序、嘉永七(一八五四)年刊行]
(う)京都大学附属図書館富士川文庫[七冊、ケ一七○、文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(え)刈谷市立図書館[文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(お)杏雨書屋乾々齋文庫[一帙八冊、乾三六二三、文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(か)東北大学図書館狩野文庫[文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(き)京都大学[文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(く)九州大学[文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(け)慶応義塾大学医学部富士川文庫[文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(こ)東京都立日比谷図書館[文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(さ)神宮文庫[文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(し)天理図書館[文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(す)滋賀医科大学図書館河村文庫[八冊、文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(せ)茨城県歴史館[八冊、文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(そ)国立公文書館[八巻八冊、一九五・一○六、文化四(一八○七)年序、刊行年不明]
(三)著者の生涯の記録
 寶暦三(一七五三)年六月十二日生、文政三(一八二○)年八月、六十八歳で没。昌克は名で、字は子柔、通称は玄与、玄貞、玄春。南陽、叢桂亭と号した。水戸藩医原昌術の子息として生まれ、幼少の頃より、儒学を伯父の戸崎淡園に、医学を父に学ぶ。安永二(一七七三)年、家督を相続。安永三(一七七四)年、京都に上がり、山脇東洋、賀川玄迪に師事して古医学、産科を学び、安永四(一七七五)年、帰藩して江戸の小石川の裏町に、按摩・鍼灸を生業として居を構え、江戸在住の水戸藩主の乾霍乱の病を、走馬湯を処方して治癒させた。その功績により、天明七(一七八七)年、御側医に抜擢され、五百石を賜る。享和二(一八○二)年、表医師肝煎となる。水戸医学の基礎を築き、軍陣医学を説いた。文化元(一八○四)年に上梓した『砦草』が軍陣医学の嚆矢とも言える医学書で、戦場における衛生管理、飲食、飲料水の処置、毒煙からの脱出、救急処置、応急手当などの方法について論述した貴重な資料と言えよう。多数の著作が知られているが、ここでは割愛した。
(四)本書の内容構成
 約600種類以上の經穴、經絡の解説書である。中国の古典的な医学書からの引用が多く見られ、全文が漢文で記載されている。巻末の索引から、經絡、經穴、文献、病気などの名称を容易に検索可能。

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