商品コード: ISBN4-7603-0205-0 C3321 \50000E

第8巻 日本科学技術古典籍資料/天文学篇[1]

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50,000円    (税込:54,000円)
第8巻 日本科学技術古典籍資料/天文學篇[1]
Volume VIII The Collected Historical Materials on Japanese Science and Technology: The History of Japanese Astronomy (1)

(01)渋川春海(保井春海)撰、安倍泰福(土御門泰福)校『貞享暦』(7巻7冊、貞享1[1684]年10月29日、国立公文書館所蔵、特4-1)
 渋川春海(保井春海)の略歴や研究歴、『貞享暦』が採用されるまでの詳細な経緯については、「日本天文學史年表」と「天文方家譜」に詳しく述べられているので、そちらを参照することをお勧めする。
 『貞享暦』の採用に至る経過を簡単に説明すると、次のようになる。日本で最初に国家が採用した暦は『元嘉暦』で、推古12(604)年のことである。次に、文武1(697)年に、『儀鳳暦』を、天応1(781)年に『大衍暦』を、それぞれ使用してきた。いずれも、中国から渡来した暦である。そして、貞観3(861)年に、大春日朝臣真野麻呂が『長慶宣明暦』を用いることを請願し、勅令により、『大衍暦』を廃し、『長慶宣明暦』を用いることになった。この『長慶宣明暦』は、渋川春海[通称は渋川助左衛門(初代)]による『貞享暦』が採用されるまで、823年間という長期にわたって用いられた。
 江戸時代において、「頒暦」に記載されている天文事象が事実に適合しないことは、以前から、保科正之、水戸光圀などによって指摘されていたところである。寛文12(1672)年にも、「頒暦」は12月の「望月食」を記載していたが、不食であった。延宝1(1673)年6月、渋川春海は、「授時暦」を用いて改暦することを請願したが却下された。
だが、延宝3(1675)年の日食は、「授時暦」ではなく、『長慶宣明暦』が適合した。そこで、彼は意を決して、測量・観測・推歩を実行し、日本製の新しい暦書を作成し、『大和暦』(全7巻)と命名した。渋川春海は、天和3(1683)年11月冬至の日に、再度、改暦を上奏したが、この提案も却下され、進退極まることになった。ところが、「頒暦」に記載されている月食がこの月に実現しなかったために、幕府は、安倍泰福(土御門泰福)に勅命を発し、改暦について検討させることにした。
貞享1(1684)年3月3日に、衆議は一致せず、「大統暦」を用いることが宣下された。その後、第五代将軍徳川綱吉の陰ながらの援助により、「大統暦」と『大和暦』の優劣を決定する実験が行われ、安倍泰福(土御門泰福)の推選も得て、『大和暦』が採用され、『貞享暦』の名称を賜った。これが、日本暦として最初に編簒された『貞享暦』(全7巻)で、貞享1(1684)年10月29日のことである。「大統暦」は頒布されておらず、貞享2(1685)年から、新暦が全国に施行された。原書は国立公文書館所蔵で、元禄時代の写本である。
 この「貞享暦」は70年間施行され、太陽年は365.241696年、朔望月(月が朔、すなわち新月から次の朔に、または、望、すなわち満月から次の満月に要する時間)は、29.530590日である。

(02)安倍泰邦(土御門泰邦)編『[寶暦]暦法新書』(16冊、寶暦4[1754]年、国立公文書館所蔵、特3甲-10)
 寶暦暦の作成は徳川吉宗の八代将軍就任と軌を一にしている。享保1(1716)年に将軍に就任してから、享保5(1720)年に、「寛永禁書令」が弛められ、中国や西洋からの外国書が輸入され、蘭学の研究を奨励したことが、近代科学興隆の基礎を形造ったのである。明治維新までの150年間、「蘭学」が独自の学問分野として花開き、後年の医学・薬学・天文学・化学・物理学・植物学・動物学・博物学など、さまざまな科学の形成に大きな影響を与えることになった。
 初期の蘭学研究者の多くは長崎在住の通訳たちが担ったために、天文学も、実用的な暦学を目的とするものではなく、教養としての真理を究めるための「究理学」に属するものであった。蘭学の中心地が江戸に移ると、天文学の研究は、国家の一大事業となり、幕府直属の官僚としての天文方によって行われることになった。その嚆矢が渋川家であり、高橋家、猪飼家、西川家、足立家、山路家、吉田家、奥村家などの名家が、続々と輩出することになった。天文方の人々の伝記については、「天文方家譜」を参照されたい。幕末に活躍した天文方の高橋景保などは、オランダ語のみならず、満州語、ロシア語、英語などにも通じ、語学力を生かした外国書翻訳家としても評価され、また、幕府の外交顧問としても活躍し、天文学のみならず、多種多様な異国の文化を紹介する役割も担った。
 徳川吉宗は西洋の実証的かつ経験的な科学精神に興味をひかれ、雨水の量の測定、測量器械の製造、表景測量、天文現象の実測などを実行し、天文学や暦学に対する熱意の程を、人々に呈示した。また、享保8(1723)年完成した『暦算全書』も、刊行3年後の享保11(1726)年に舶載され、享保18(1733)年には、中根元圭が訓点を附した訳書全46冊も完成し、天文学や暦学を研究する機運は、いやがうえにも高まってきた。
 元文5(1740)年11月23日には、天文方の西川正休を召しだし、改暦の準備を命じた。その後、さまざまな紆余曲折がありながらも、西川正休は渋川則休と共にこの事業に参画した。この過程で、幕府の天文方と京都の土御門家との主導権争いの末に、西川正休は失脚し、失意のうちに、寶暦6(1756)年に、64歳にして、この世を去った。かくして、完成した暦書は、『寶暦暦法新書』と呼ばれ、寶暦4(1754)年10月16日に、土御門家から奏進された。寶暦4(1754)年10月19日に改暦が宣下され、「寶暦甲戌元暦」の名称を賜り、寶暦5(1755)年から、全国に頒布された。この「寶暦甲戌元暦」は、43年間施行され、太陽年は365.241556年、朔望月は、29.530590日である。「貞享暦」に代えて、なぜ「寶暦甲戌元暦」を作成する必要性については、現在でもさまざまな意見があるので、編者としては評価を差し控えたい。本書は、国立公文書館所蔵で、『[寶暦]暦法新書・續録』と合冊されている。
(03)安倍泰邦(土御門泰邦)『[寶暦]暦法新書・續録』(2冊、明和4[1767]年、国立公文書館所蔵、特3甲-10)
 上記のような経緯を経て作成された「寶暦暦」は、施行後9年の「13年暦」には、9月朔日の日食を記載しなかった。このような誤記が目立つために、明和2(1765)年5月23日に、佐々木文次郎に「寶暦暦」の調査を委嘱し、明和2(1765)年8月、牛込の藁店に新暦調御用所を設け、再度の測量を開始した。明和6(1769)年になって、「寶暦暦」の修正が完了し、『[修正]寶暦甲戌元暦』10冊、『[寶暦]寶暦甲戌元暦和解』2冊、『[寶暦]暦法新書・續録』2冊を上呈した。明和8(1771)年刊行の「頒暦」には、改暦後16年を経て、「寶暦甲戌元暦」は、ようやく完成したと記されている。この後も、明和4(1767)年1月・明和5(1768)年12月・天明4(1784)年7月・寛政7(1795)年12月の不食日食、明和4(1767)年6月16日・天明8(1788)年5月15日・寛政8(1796)年5月15日の不食月食、置閏法の誤記が記載されたりして、一層の混乱を招くことになった。これら修正された暦書の中の1冊が、この『[寶暦]暦法新書・續録』2冊である。本書は、国立公文書館所蔵で、『[寶暦]暦法新書』と合冊されている。
(04)吉田秀升・山路徳風・高橋至時 撰述、安倍泰栄(土御門泰栄) 校正『暦法新書』(6巻首1巻8冊、国立公文書館所蔵、194-157)
 寶歴の改暦後も、「寶暦甲戌元暦」は交食法や置閏法について、暦と合致しない天文事象が相次ぎ、幕府も再度の改暦を考えざるを得なかった。そして、寛政4(1792)年、天文方の吉田秀升と山路徳風に命じて、『崇禎暦書』による試暦を作成させた。そして、幾多の試練の時期を経て、寛政8(1796)年、高橋至時と間重冨に、『暦象考成・後篇』を基にした改暦の命令が下された。この「寛政暦」の作成をめぐる顛末については、「日本天文學史年表」と「天文方家譜」を参照されたい。かくして、さまざまな困難を経ながら、寛政9(1797)年10月13日、『暦法新書』(8巻)が安倍泰栄(土御門泰栄)に奏進され、同年10月19日に、改暦が宣下され、「寛政暦」の名称を賜り、寛政10(1798)年から施行された。この「寛政暦」は46年間施行され、太陽年は365.242347年、朔望月は、29.530584日である。ただ、この「寛政暦」は、推算法を記述したので、暦理はない。『国書総目録』には、別名が『[寛政]暦法新書』(6巻首1巻8冊)と表記されている。この集成では、国立公文書館所蔵の原書を使用した。

(05)渋川景佑 編、安倍晴親(土御門晴親)校正『新法暦書』(9巻9冊、天保13[1842]年序、国立公文書館所蔵、特4-3)
 渋川景佑の詳細な略歴及び研究歴については、「日本天文學史年表」と「天文方家譜」を参照されたい。「寛政暦」は、採用後まもなくの享和2(1798)年8月朔の日食食甚時刻が17分も狂い、観測誤差、系統的な誤差が目立つようになってきた。また、寛政10(1798)年10月の月食は、天体の運行の推測と実測との間に誤差があり、さらに、文化10(1815)年5月15日の月食は、皆既でなくやや微光が認められたなど、さまざまな問題が発生してきた。天保12(1841)年11月24日、幕府は、渋川景佑と足立信頭に、先に撰述した『新巧暦書』に基づいて改暦すること命じた。かくして、天保13(1842)年、『新法暦書』(10巻)が成立し、同年9月に、土御門晴雄を通じて奏進され、同年10月6日に、新暦の採用が決定され、「天保壬寅元暦」の名称を賜り、天保15(1844)年から施行された。この「天保壬寅元暦」は、日本で最後の太陰太陽暦で、明治6(1873)年に太陽暦が採用されるまで、29年間施行された。因みに、「天保壬寅元暦」の太陽年は365.242234年、朔望月は、29.530588日である。
 この改暦にあっては、暦道の本家である土御門家は、殆ど影響を及ぼすことはなかった。今までの「貞享暦」「寶暦甲戌元暦」「寛政暦」の3回の改暦事業においても、幕府の天文方と土御門家の、「暦」製作をめぐる覇権争いはすさまじいものがあった。そのために西川正休などは、天文方を解任されている。「寛政暦」の改暦までは、天文方は京都の土御門家に赴いて数年に渡る測験を行い、暦法が天文事象に一致するのを確かめてから、土御門家より奏上して、新暦を施行する過程を経たが、天保の改暦では事情が一変した。天文方は、もはや、土御門家に隷属する天文生以上の実力を身につけたのである。徳川吉宗の登場以降、蘭書・中国書を繙きながら研鑽に努めた天文方の科学的・技術的な実力の向上が背景にあろう。
(06)吉田秀升・山路徳風・高橋至時 撰述、安倍泰栄(土御門泰栄) 校正『新暦法稿ト暦法新書ノ對校之覺書付』(1巻1冊、国立公文書館所蔵、特5-6)
 『暦法新書』とその原稿を対照するための貴重な資料である。原稿にはあるが、『暦法新書』には記載されなかった、もしくは、『暦法新書』おいて変更された事項とその内容を列挙している。40丁に満たない小冊子で、「正誤表」といった内容である。
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第一部 資料篇

(01)渋川春海(保井春海)撰、安倍泰福(土御門泰福)校『貞享暦』(7巻7冊、貞享1[1684]年10月29日、国立公文書館所蔵、特4-1)
 渋川春海(保井春海)の略歴や研究歴、『貞享暦』が採用されるまでの詳細な経緯については、「日本天文學史年表」と「天文方家譜」に詳しく述べられているので、そちらを参照することをお勧めする。
 『貞享暦』の採用に至る経過を簡単に説明すると、次のようになる。日本で最初に国家が採用した暦は『元嘉暦』で、推古12(604)年のことである。次に、文武1(697)年に、『儀鳳暦』を、天応1(781)年に『大衍暦』を、それぞれ使用してきた。いずれも、中国から渡来した暦である。そして、貞観3(861)年に、大春日朝臣真野麻呂が『長慶宣明暦』を用いることを請願し、勅令により、『大衍暦』を廃し、『長慶宣明暦』を用いることになった。この『長慶宣明暦』は、渋川春海[通称は渋川助左衛門(初代)]による『貞享暦』が採用されるまで、823年間という長期にわたって用いられた。
 江戸時代において、「頒暦」に記載されている天文事象が事実に適合しないことは、以前から、保科正之、水戸光圀などによって指摘されていたところである。寛文12(1672)年にも、「頒暦」は12月の「望月食」を記載していたが、不食であった。延宝1(1673)年6月、渋川春海は、「授時暦」を用いて改暦することを請願したが却下された。
だが、延宝3(1675)年の日食は、「授時暦」ではなく、『長慶宣明暦』が適合した。そこで、彼は意を決して、測量・観測・推歩を実行し、日本製の新しい暦書を作成し、『大和暦』(全7巻)と命名した。渋川春海は、天和3(1683)年11月冬至の日に、再度、改暦を上奏したが、この提案も却下され、進退極まることになった。ところが、「頒暦」に記載されている月食がこの月に実現しなかったために、幕府は、安倍泰福(土御門泰福)に勅命を発し、改暦について検討させることにした。
貞享1(1684)年3月3日に、衆議は一致せず、「大統暦」を用いることが宣下された。その後、第五代将軍徳川綱吉の陰ながらの援助により、「大統暦」と『大和暦』の優劣を決定する実験が行われ、安倍泰福(土御門泰福)の推選も得て、『大和暦』が採用され、『貞享暦』の名称を賜った。これが、日本暦として最初に編簒された『貞享暦』(全7巻)で、貞享1(1684)年10月29日のことである。「大統暦」は頒布されておらず、貞享2(1685)年から、新暦が全国に施行された。原書は国立公文書館所蔵で、元禄時代の写本である。
 この「貞享暦」は70年間施行され、太陽年は365.241696年、朔望月(月が朔、すなわち新月から次の朔に、または、望、すなわち満月から次の満月に要する時間)は、29.530590日である。

(02)安倍泰邦(土御門泰邦)編『[寶暦]暦法新書』(16冊、寶暦4[1754]年、国立公文書館所蔵、特3甲-10)
 寶暦暦の作成は徳川吉宗の八代将軍就任と軌を一にしている。享保1(1716)年に将軍に就任してから、享保5(1720)年に、「寛永禁書令」が弛められ、中国や西洋からの外国書が輸入され、蘭学の研究を奨励したことが、近代科学興隆の基礎を形造ったのである。明治維新までの150年間、「蘭学」が独自の学問分野として花開き、後年の医学・薬学・天文学・化学・物理学・植物学・動物学・博物学など、さまざまな科学の形成に大きな影響を与えることになった。
 初期の蘭学研究者の多くは長崎在住の通訳たちが担ったために、天文学も、実用的な暦学を目的とするものではなく、教養としての真理を究めるための「究理学」に属するものであった。蘭学の中心地が江戸に移ると、天文学の研究は、国家の一大事業となり、幕府直属の官僚としての天文方によって行われることになった。その嚆矢が渋川家であり、高橋家、猪飼家、西川家、足立家、山路家、吉田家、奥村家などの名家が、続々と輩出することになった。天文方の人々の伝記については、「天文方家譜」を参照されたい。幕末に活躍した天文方の高橋景保などは、オランダ語のみならず、満州語、ロシア語、英語などにも通じ、語学力を生かした外国書翻訳家としても評価され、また、幕府の外交顧問としても活躍し、天文学のみならず、多種多様な異国の文化を紹介する役割も担った。
 徳川吉宗は西洋の実証的かつ経験的な科学精神に興味をひかれ、雨水の量の測定、測量器械の製造、表景測量、天文現象の実測などを実行し、天文学や暦学に対する熱意の程を、人々に呈示した。また、享保8(1723)年完成した『暦算全書』も、刊行3年後の享保11(1726)年に舶載され、享保18(1733)年には、中根元圭が訓点を附した訳書全46冊も完成し、天文学や暦学を研究する機運は、いやがうえにも高まってきた。
 元文5(1740)年11月23日には、天文方の西川正休を召しだし、改暦の準備を命じた。その後、さまざまな紆余曲折がありながらも、西川正休は渋川則休と共にこの事業に参画した。この過程で、幕府の天文方と京都の土御門家との主導権争いの末に、西川正休は失脚し、失意のうちに、寶暦6(1756)年に、64歳にして、この世を去った。かくして、完成した暦書は、『寶暦暦法新書』と呼ばれ、寶暦4(1754)年10月16日に、土御門家から奏進された。寶暦4(1754)年10月19日に改暦が宣下され、「寶暦甲戌元暦」の名称を賜り、寶暦5(1755)年から、全国に頒布された。この「寶暦甲戌元暦」は、43年間施行され、太陽年は365.241556年、朔望月は、29.530590日である。「貞享暦」に代えて、なぜ「寶暦甲戌元暦」を作成する必要性については、現在でもさまざまな意見があるので、編者としては評価を差し控えたい。本書は、国立公文書館所蔵で、『[寶暦]暦法新書・續録』と合冊されている。

(03)安倍泰邦(土御門泰邦)『[寶暦]暦法新書・續録』(2冊、明和4[1767]年、国立公文書館所蔵、特3甲-10)
 上記のような経緯を経て作成された「寶暦暦」は、施行後9年の「13年暦」には、9月朔日の日食を記載しなかった。このような誤記が目立つために、明和2(1765)年5月23日に、佐々木文次郎に「寶暦暦」の調査を委嘱し、明和2(1765)年8月、牛込の藁店に新暦調御用所を設け、再度の測量を開始した。明和6(1769)年になって、「寶暦暦」の修正が完了し、『[修正]寶暦甲戌元暦』10冊、『[寶暦]寶暦甲戌元暦和解』2冊、『[寶暦]暦法新書・續録』2冊を上呈した。明和8(1771)年刊行の「頒暦」には、改暦後16年を経て、「寶暦甲戌元暦」は、ようやく完成したと記されている。この後も、明和4(1767)年1月・明和5(1768)年12月・天明4(1784)年7月・寛政7(1795)年12月の不食日食、明和4(1767)年6月16日・天明8(1788)年5月15日・寛政8(1796)年5月15日の不食月食、置閏法の誤記が記載されたりして、一層の混乱を招くことになった。これら修正された暦書の中の1冊が、この『[寶暦]暦法新書・續録』2冊である。本書は、国立公文書館所蔵で、『[寶暦]暦法新書』と合冊されている。

(04)吉田秀升・山路徳風・高橋至時 撰述、安倍泰栄(土御門泰栄) 校正『暦法新書』(6巻首1巻8冊、国立公文書館所蔵、194-157)
 寶歴の改暦後も、「寶暦甲戌元暦」は交食法や置閏法について、暦と合致しない天文事象が相次ぎ、幕府も再度の改暦を考えざるを得なかった。そして、寛政4(1792)年、天文方の吉田秀升と山路徳風に命じて、『崇禎暦書』による試暦を作成させた。そして、幾多の試練の時期を経て、寛政8(1796)年、高橋至時と間重冨に、『暦象考成・後篇』を基にした改暦の命令が下された。この「寛政暦」の作成をめぐる顛末については、「日本天文學史年表」と「天文方家譜」を参照されたい。かくして、さまざまな困難を経ながら、寛政9(1797)年10月13日、『暦法新書』(8巻)が安倍泰栄(土御門泰栄)に奏進され、同年10月19日に、改暦が宣下され、「寛政暦」の名称を賜り、寛政10(1798)年から施行された。この「寛政暦」は46年間施行され、太陽年は365.242347年、朔望月は、29.530584日である。ただ、この「寛政暦」は、推算法を記述したので、暦理はない。『国書総目録』には、別名が『[寛政]暦法新書』(6巻首1巻8冊)と表記されている。この集成では、国立公文書館所蔵の原書を使用した。

(05)渋川景佑 編、安倍晴親(土御門晴親)校正『新法暦書』(9巻9冊、天保13[1842]年序、国立公文書館所蔵、特4-3)
 渋川景佑の詳細な略歴及び研究歴については、「日本天文學史年表」と「天文方家譜」を参照されたい。「寛政暦」は、採用後まもなくの享和2(1798)年8月朔の日食食甚時刻が17分も狂い、観測誤差、系統的な誤差が目立つようになってきた。また、寛政10(1798)年10月の月食は、天体の運行の推測と実測との間に誤差があり、さらに、文化10(1815)年5月15日の月食は、皆既でなくやや微光が認められたなど、さまざまな問題が発生してきた。天保12(1841)年11月24日、幕府は、渋川景佑と足立信頭に、先に撰述した『新巧暦書』に基づいて改暦すること命じた。かくして、天保13(1842)年、『新法暦書』(10巻)が成立し、同年9月に、土御門晴雄を通じて奏進され、同年10月6日に、新暦の採用が決定され、「天保壬寅元暦」の名称を賜り、天保15(1844)年から施行された。この「天保壬寅元暦」は、日本で最後の太陰太陽暦で、明治6(1873)年に太陽暦が採用されるまで、29年間施行された。因みに、「天保壬寅元暦」の太陽年は365.242234年、朔望月は、29.530588日である。
 この改暦にあっては、暦道の本家である土御門家は、殆ど影響を及ぼすことはなかった。今までの「貞享暦」「寶暦甲戌元暦」「寛政暦」の3回の改暦事業においても、幕府の天文方と土御門家の、「暦」製作をめぐる覇権争いはすさまじいものがあった。そのために西川正休などは、天文方を解任されている。「寛政暦」の改暦までは、天文方は京都の土御門家に赴いて数年に渡る測験を行い、暦法が天文事象に一致するのを確かめてから、土御門家より奏上して、新暦を施行する過程を経たが、天保の改暦では事情が一変した。天文方は、もはや、土御門家に隷属する天文生以上の実力を身につけたのである。徳川吉宗の登場以降、蘭書・中国書を繙きながら研鑽に努めた天文方の科学的・技術的な実力の向上が背景にあろう。

(06)吉田秀升・山路徳風・高橋至時 撰述、安倍泰栄(土御門泰栄) 校正『新暦法稿ト暦法新書ノ對校之覺書付』(1巻1冊、国立公文書館所蔵、特5-6)
 『暦法新書』とその原稿を対照するための貴重な資料である。原稿にはあるが、『暦法新書』には記載されなかった、もしくは、『暦法新書』おいて変更された事項とその内容を列挙している。40丁に満たない小冊子で、「正誤表」といった内容である。

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