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第5巻 民間治療(9)

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第5巻 民間治療(9)
Volume 5 Folk Cure(9)

〈1998/平成11年6月刊行〉[第5回配本]

◎和方一萬方〈改訂・増補版〉【前篇】(村井 琴山 著)

〔全11巻〕《全巻完結》
The Collected Historical Materials in Yedo Era III
浅見 恵・安田 健 訳編
B5版・上製・布装・貼箱入

和方一萬方(わほういちまんぽう)[国立公文書館内閣文庫所蔵、四十三巻、十一冊、  一九五・三一]
(一)書誌
 本集成では国立公文書館内閣文庫所蔵の写本を使用した。処方編が四十三巻で、その他に、附録一巻と附考一巻を含んでいる。ここで言う巻とは、製本された書籍の冊数ではなく、現代風に言うならば、章に相当する用語である。すなわち、これらの合計四十五巻は十一冊として製本してある。『国書総目録』『古典籍総合目録』(岩波書店)によれば、この写本は、本書で使用したものを含めて、以下の諸機関に所蔵されている。編者が未見の資料もあるが、ここでは、これらの資料をあえて三群に分類した。編者が内容を検討したのは(あ)(い)(く)(け)(さ)(た)である。

(一)原本の巻数に類似していると推定される写本
(あ)国立公文書館内閣文庫[村井琴山撰、邨井冠五・邨井玄齋・渡邊周齋 校、四十三巻・附録・附考、十一冊、一九五・三一] 
(い)国立公文書館内閣文庫[村井琴山撰、邨井冠五・邨井玄古・渡邊周齋 校、四十一巻・附録、四十二冊、特一○三・二]
(え)杏雨書屋乾々齋文庫[『和方一萬方・前編』の表題がある。附録一巻と換骨抜粋書一巻を含む四十三巻、一帙二十冊、乾二一○五]
(お)杏雨書屋[文化二(一八○五)年の曾槃朱批本。熊本県竹田家の伝来本。四十一巻、二帙四十二冊、研三五三六]
(か)杏雨書屋[「松村文庫」の印がある。四十一巻、二帙二十二冊、杏六七六○]
(く)国立国会図書館[村井琴山撰、邨井冠五・邨井玄古・渡邊周齋 校、四十一巻、十冊、二○○・一二四、ここでは六冊に製本されている]
(さ)東京国立博物館[村井琴山撰、邨井冠五・邨井玄古・渡邊周齋 校、四十一巻、十冊、と二四八七、徳川宗敬氏寄贈本]
(せ)東北大学狩野文庫[四十二冊]
(た)大塚敬節氏所有本[村井琴山撰、邨井冠五・邨井玄古・渡邊周齋 校、巻一~四十一・附録一巻、十冊]

(二)原本を抜粋したと推定される写本
(う)研医会図書館[『和方壱万方』の表題がある。明治期の写本。前編巻一九~二二、一冊]
(き)杏雨書屋[第四巻、第十二巻、第十五巻、第二十四巻、第二十九巻、第三十四巻、第三十六巻、第三十七巻の合計八巻、一帙八冊、杏六七六一]
(け)国立国会図書館[目次には巻四十一まで記載されているが、本文は巻三十三までである。 おそらく巻三十三~四十一は、紛失したか、筆写を中途で止めたのであろう。巻一~三十   三、八冊、一四一・八・一九四]
(こ)国立国会図書館白井光太郎文庫[明治二十一~二十四年にかけて模写された。巻一~十三、十三冊、特一・一五○一]
(し)京都大学附属中央図書館富士川文庫[巻一~三十六・巻三十九~四十一、十九冊]
(す)京都大学附属中央図書館富士川文庫[序目・巻九~十二・巻十六~二十、五冊]

(三)未見で内容の推定が不可能な写本
(そ)無窮会神習文庫[十冊]

(二)撰者の生涯の記録
 村井琴山は享保十八(一七三三)年七月十六日に、肥後熊本の古町新鍛冶屋町に生まれ、文化十二(一八一五)年三月一日に歿している。享年八十三歳。墓所は、父の村井見朴(一七○二~一七六○)と同じく、熊本の春日万日山にある。名号は邨井とも記し、名は■(ちゅん)、字は大年、通称は椿寿。琴山、琴斎、原診館、六清真人、清福道人、子琴などと号した。肥後の熊本藩の侍医を業とし、医師である村井見朴の長男で、弟に蘇山・習静、子に蕉雪がいることが知られている。肥後の熊本藩より百五十石を賜る。家庭において、父より医学を伝授され、その後、失明した父を助けて、藩校の医学校である再春館を興す。寶暦十(一七六○)年、父の没後、再春館の助講を命ぜられるも固辞し、京都に遊学し、吉益東洞に古医方を学ぶ。帰郷して吉益東洞の古医方を継承・実践し、名医と称されるまでになった。医学関係の主要な著作として、次のものが知られている。
(ち)医字解
(つ)医道二千年/眼目編[文化四(一八○七)年刊行]
(て)医方量水率考
(と)古医薬量考[明和五(一七六八)年刊行]
(な)傷寒論講義[天明二(一七六八)年刊行]
(に)傷寒論自序講録
(ぬ)善音堂薬量考[明和七(一七七○)年刊行]
(ね)痘疹要薬考
(の)痘瘡問答[享和三(一八○三)年刊行]
(は)毒薬考
(ひ)麻疹略説[享和三(一八○三)年刊行]
(ふ)扁鵲伝
(へ)扁鵲伝年表
(ほ)薬徴/続編[安永七(一七七八)年刊行]
(ま)類聚方議

(三)『和方一萬方』のさまざまな種類の写本の内容の比較
 まず、編者の手元にある次の四種類の写本について、それらの内容を比較・検討してみよう。後述するように、(い)(く)(け)(さ)(た)は内容がほぼ同一なので、(あ)(い)を考究の対象とする。
(あ)国立公文書館内閣文庫[村井琴山撰、邨井冠五・邨井玄齋・渡邊周齋 校、四十三巻、十一冊、一九五・三一]
(い)国立公文書館内閣文庫[村井琴山撰、邨井冠五・邨井玄古・渡邊周齋 校、四十一巻、四十二冊、特一○三・二]
(く)国立国会図書館[村井琴山撰、邨井冠五・邨井玄古・渡邊周齋 校、四十一巻、十冊、二○○・一二四、ここでは六冊に製本されている]
(け)国立国会図書館[目次には巻四十一まで記載されているが、本文は巻三十三までである。おそらく巻三十三~四十一は、紛失したか、筆写を中途で止めたのであろう。巻一~三十三、八冊、一四一・八・一九四]
(さ)東京国立博物館[村井琴山撰、邨井冠五・邨井玄古・渡邊周齋 校、四十一巻、十冊、と二四八七、徳川宗敬氏寄贈本]
(た)大塚敬節氏所有本[村井琴山撰、邨井冠五・邨井玄古・渡邊周齋 校、巻一~四十一・附録一巻、十冊]
これらの情報から推測されることは、以下のことである。
[一](い)(く)(け)(さ)(た)は、目次が同一で、かつ書き写されている内容もほぼ同じなので、おそらく、いずれかがいずれかを模写したものであろうと推定できる。
[二](あ)は後世の研究者による、朱書と附考[正誤表]が記載されているのが大きな特色である。この朱書も、不明な病名、薬物名称が論じられているので興味深く、(い)をさらに縮約し、増補・改訂したものではないかと、編者は類推した。従って、この類推を根拠として、「改訂・増補版」とした。ただ、これは確証といえるものではないので、読者諸氏の真摯なご指摘と今後の研究に委ねることにしたい。
[三](い)で、表紙と本文の大見だしの巻数が一つづつずれているのは、最初の自序・凡例・目次を収録した巻を表紙では一巻として計算しているからである。
[四](た)は既に、以下のような表題で刊行されているが、詳細な書誌的解題や索引は掲載されていない。
 *『和方一万方』(大塚敬節・矢数道明編「近世漢方医学書集成」三十四・三十五、名著出版  昭和五十六年刊行)
[五](あ)(い)(く)(け)(さ)(た)共に、自序の年記は天明元(一七八一)年三月、凡例の年記は享和二(一八○二)年壬戌秋八月、奥附の年記は享和三(一八○三)年癸亥閏となっている。ただし、(け)に奥附は記載されていない。
[六]『和方一萬方』は著者が十四歳の年齢の時にあたる延享二(一七四五)年に書き起こすも、安永七(一七七八)年七月の火災によって、その原稿の大半(三分の二、約七十パーセント)を失うことになった。本書は、その焼け残った残りの約三十パーセントの原稿を基にして書かれている。このことから、安永の火事の前には約一万もしくは一万五千の処方が記載された原稿が存在していたことが推測できる。また、「この大火の前に、それまでに作成された草稿を『善音堂救急方』と題して刊行した。」と述べている。ただ、この資料は未だ見いだされていないので、発行の有無・時期及び具体的な内容構成を確認することは不可能に近い。
[七]天明年間に入ってから、版元から刊行の要請を受け、序文のみを記して、享和二(一八○二)年まで執筆を放棄していた。自序の年記が天明元(一七八一)年三月とあるのは、このためである。そして、享和二(一八○二)年に幕府の命令により刊行を余儀なくされた。その時に、凡例を書き記したので、その年記が享和二(一八○二)年壬戌秋八月となっている。幕府も、救急・備急・卒時の際の、民衆の役にたつ「家庭医学書」として、『和方一萬方』を早急に必要としたのであろう。
[八]「この『和方一萬方』は、前篇として五千種類を掲載する予定であったが、癩病と黴毒の処方の一部を割愛したために、実際に掲載されている処方の数は、約四千餘種類である。この書の後編は、五千種類の処方を掲載する予定であるも、未だ刊行されず、企画中である。」と述べている。
[九]『千金方』『肘后方』『諸家本草書』『諸方書』など中国渡来の古文献に加えて、黒焼薬を中心とした日本独自の処方も取り入れて編簒しているのが大きな特色である。また、薬物名、病気名が、和名、方言名、隠語名、漢名、俗名で多様に表記されていて、和方の伝来者名、引用文献名が省略されているのも特色と言えよう。癩病と黴毒は、治療に人体の機能に障害を引き起こすような、水銀、軽粉などの劇薬を使用したりすることが多く、また、発病まで時間のかかる緩證であることを考慮して、一部省略してある。さらに、鉱物性生薬、ケシ、阿片などの使用は、「毒をもって毒を制する」村井琴山の治療方針を垣間見ることができる。
[十](あ)(い)の目次を比較すると以下のようになる
*巻之一
(あ)(い)小児諸病部
*巻之二
(あ)(い)小児諸病部
*巻之三
(あ)(い)小児諸病部
*巻之四
(あ)(い)小児諸病部
*巻之五
(あ)(い)諸草部
*巻之六
(あ)(い)紫丸保童圓部
*巻之七
(あ)(い)婦人諸病部
*巻之八
(あ)(い)婦人諸病部
*巻之九
(あ)(い)血道七氣部
*巻之十
(あ)(い)血道七氣部
*巻之十一
(あ)(い)眼目部
*巻之十二
(あ)(い)咽喉口舌部
*巻之十三
(あ)歯牙部、(い)齒牙部
*巻之十四
(あ)(い)鼻耳部
*巻之十五
(あ)(い)湯火傷部
*巻之十六
(あ)諸虫獸咬傷部、(い)諸虫獸咬部
*巻之十七
(あ)(い)諸毒消部
*巻之十八
(あ)(い)金瘡手負部
*巻之十九
(あ)(い)金瘡手負部
*巻之二十
(あ)金瘡雜部、(い)金瘡部
*巻之二十一
(あ)(い)簽刺并打撲折傷部
*巻之二十二
(あ)膏藥部、(い)膏藥部
*巻之二十三
(あ)(い)唐瘡部
*巻之二十四
(あ)(い)下疳黴毒部
*巻之二十五
(あ)(い)横根便毒部
*巻之二十六
(あ)(い)癰疔疽部
*巻之二十七
(あ)(い)■疽部
*巻之二十八
(あ)(い)諸腫物部
*巻之二十九
(あ)(い)諸腫物部
*巻之三十
(あ)(い)諸瘡部
*巻之三十一
(あ)田虫部、(い)田虫錢瘡部
*巻之三十二
(あ)(い)白禿癜風部
*巻之三十三
(あ)疣痣鵞掌風部、(い)奇驗方部
*巻之三十四
(あ)手足諸疾部、(い)薫藥部
*巻之三十五
(あ)(い)大便部
*巻之三十六
(あ)(い)小便部
*巻之三十七
(あ)奇驗方部、(い)ジヤクロ/夏虫/魚ノ目/ホクロ/ホヤケ/イボ部
*巻之三十八
(あ)薫藥部、(い)霜ヤケ/手足ウラキレ/赤キレ/マメ并脇臭部
*巻之三十九
(あ)瘧疾/痰咳/瘰癧/氣腫/■瘤/消渇/黄胖部、(い)瘧疾/痰咳/氣腫/瘰癧/■瘤/   消渇/浮腫/黄胖部
*巻之四十
(あ)胸虫/寸白虫/疝氣部、(い)胸虫/寸白虫/積氣/霍亂/疝氣/心痛/膈■部
*巻之四十一
(あ)脚氣/腰痛部、(い)雜部
*巻之四十二
(あ)積氣/霍亂/腹痛/膈■/吐血/下血部、(い)附録[アマ酒ノ法/黒ヤキノ法/癘病治   方印施]
*巻之四十三
(あ)丸散圓并雜治方部
*(巻之四十四)
(あ)附録[醴酒/黒焼ノ法/癘病治方印施]
*(巻之四十五)
(あ)附考[正誤表]
 この(あ)と(い)の内容を比較・検討すると、以下のような疑問点がみいだされるので、列挙してみよう。
(あ)と(い)で処方の数が異なるのは、なぜであろうか?(あ)では病気名がさらに細分化されていて、処方の増加と削除が適宜に行なわれていることを根拠として、(い)よりも改訂された資料とした次第である。試みに、脚氣の巻を比較してみよう。(あ)では、七種類の病気名に対応した三十七種類の処方が分類・整理されているのに対して、(い)では、二種類の病気名に対応した二十五種類の処方が記載されているに過ぎない。ただ、(い)には、(あ)には記載されていない二種類の処方が見られる。前述したように、(あ)では、膝クサリ、膝腫レ、足腫レ、風ト濕ケノコモッタ脚氣、筋ケノナユル脚氣など、病気名がより細分化されているのが大きな特色である。ただ、全体に渡ってこれらの両書を比較していないので、早急な断定は控える必要があろう。
 附考と朱書が(あ)にのみ掲載されている理由は何であろうか?本文の朱書に対応したのがこの附考である。他の写本にこの附考の巻は全く見られない。
 この附考の中に瀕出する「原本」とは、何の書籍を指すのであろうか?「原本」の書き写しをしながら、誤記や疑問点を考察していたことが推定される。

(四)撰者の医療思想と今後の研究の展望
 村井琴山の活躍した十八・十九世紀にあっては、中国医学の影響力が大ではあるが、曲直瀬道三以来の医師たちによって考案あるいは改良された数々の診療方法の蓄積により、日本の風土や民俗に即した独創的な治療方法の確立が、より真実味を帯びてきた時代と言ってさしつかえないであろう。いわゆる、漢方医学をそのまま記載する段階を越えて、独創的な段階をめざそうとする時代であったのであろう。たとえば、日本独自の薬材を黒焼にした処方が多く採用されていることを考えると、この説はあながち否定できないだろう。黒焼とは、霜とも呼ばれ、室町時代に中国より伝来したとされる薬品製造方法で、陶器の壷の中で、薬用とする動物や植物を蒸し焼にして黒こげにし、薬物として用いる手法である。五八霜、百草霜などと呼ばれる。「ただ、この黒焼の方法は、中国医学ではあまり多用されていない。」というのが、村井琴山の見解である。これに対して白焼とは、これらの生物の炭火中で焼かれた白骨を指す用語である。
 また、この時代に、吉益東洞の「万病一毒説」が流布したことを考えると、陰陽五行説のような、中国の易学思想に根拠をもつ、非科学的な医学が主流を占めていた時代にあって、病気の内的な原因を探り、それに対応する薬物をもって医療活動を展開しようとした村井琴山の業績は、評価されるべきである。また、この資料は、親試実験の思想が随所に生かされた処方集で、病気の種類を細かく分類し、それに対応した処方が懇切丁寧に説明されている。初めに思想があるのではなく、まず病人が存在していて、その人の病気の原因を探求しようとする試みは、当時にあっては、既存の医師勢力との間に大きな軋轢を産んだことであろう。本書の中に約四千項目以上にのぼる多くの処方が記載されていることを考えると、中国の古典的な医学書から採用された処方のほかに、日本独自の処方が混在していると考えるのが妥当であろう。これら中国伝来の古典的な処方と、日本において改良あるいは考案された処方の比較研究は、中国と日本の医療文化の相互の伝播作用を解き起こす重要な鍵になるであろう。ただ、編者の力量を考えて、この研究は後学の士に委ねられるべきであり、またおおいに期待するところでもある。現在における、薬の効果のみを論ずる平面的な研究ではなく、処方の背後に見られる何物かを読み取る立体的な研究へと開かれる道があることを確信している。歴史学、論理学、薬学、民俗学などの蓄積をもって、各学問のアプローチが必要であり、今後の総体的な研究が待たれる次第である。
 この資料から得られる知見をもとにして考えると、以下のような主題での研究が可能であろう。
(一)これらの多種類の薬物の組み合わせた処方には、ある法則性があるのであろうか?
(二)これらの処方を完成するまでの過程はいかなるものであろうか?
(三)江戸時代の民間治療の根本的な考え方を説明する鍵がどこにひそんでいるのであろうか?
(四)精密な現代医学と比較・対照する愚を避けながら、江戸時代の民間の医療思想を抽出することは可能であろうか?
(五)現在においてはあまり多用されていない、水銀・軽粉などの鉱物性劇薬の使用の効果を類推することが可能であろうか?
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